ブラタモリのまとめ

【大阪城】ブラタモリ紹介のスポットまとめ…2016.11.12

2016/11/13

ブラタモリ大阪城編(真田丸スペシャル)が紹介した、大阪城の歴史や地形がわかるスポットをまとめました。旅行や教養のために是非ご覧ください。

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大阪城とは

大阪城

築城にあたり、大阪は「日本一の場所」と言い残して他界した織田信長。その遺志を引き継いで、豊臣秀吉は天下統一の拠点として、大阪城を築きました。

大阪城は、周囲を湿地帯に囲まれた、上町台地に築かれました。周辺の地形については、ブラタモリ大阪編で詳しく取り上げられています。簡単にいうと、大阪駅の南東に大阪城があり、そこが上町台地の北端にあたります。

【大阪】ブラタモリ紹介のスポットまとめ…2016.11.05

お断り 当サイトではキュレーションの手法を避けておりますが、ブラタモリのまとめでは、例外的に未訪問の場所を記事にさせていただいております。関東圏は極力、後日訪問しています。情報の不備があればご指摘ください。

ブラタモリ大阪城のテーマ

大阪城

ブラタモリのテーマは、「大阪城はなぜ難攻不落」。

築城当時、大阪城は、日本でもっとも難攻不落とされました。大坂冬の陣で豊臣秀吉は、自軍の2倍以上、20万の徳川の軍勢に取り囲まれたものの、落城を免れました。これには大阪城の、地形的な要因や、真田丸の大健闘が大きく関わっています。

地下に封印された豊臣大阪城の痕跡

最終的に豊臣家は滅亡し、現在残っている、大阪城の石垣や堀は、徳川家が作ったものです(天守閣は再建)。しかし、1ヶ所だけ、豊臣秀吉の痕跡が残されています。

天守閣が見える場所に、大きな井戸のようなものがあります。鍵を開けると、はしごで下ることができます。深さは7m以上。ブラタモリの取材カメラマンが下へ降りると、古い石垣があります。

豊臣大阪城の本丸は、苦い記憶を消すかのように、盛り土ですっぽり覆われていたのです。その上に、徳川の大阪城が建てられました。100年も経つとそのことは忘れられ、江戸時代の後半には、豊臣秀吉の遺産と考えられていました。その後、識者が徳川によるものと突き止めたあとも、豊臣びいきが多い、大阪の人には伏せられていました。

大坂冬の陣の激戦地

大阪城の北、現在の京橋駅の周辺には、大坂冬の陣の激戦地だった場所があります。徳川方は、大阪城の北東、京都方面から攻め入ってきました。

大阪環状線の京橋駅の西側には、よく観察すると、周囲より高い場所を走る道路があります。ここは、大阪城の北東に当たります。尾根状の、高い道路を降りると、昭和47年埋め立てられた川の跡となる道路があります。

ブラタモリでは、京橋駅の西にあるA地点から尾根状の高い道路を歩き、階段を降り、川を埋め立てた道路上のB地点に出ました。川沿いの尾根上の高台といえば、自然堤防です。

自然堤防:河川の上流から運搬されてきた砂などが、河道の岸に沿って堆積して形成された微高地(地形学辞典)

大坂冬の陣のさいに、戦いに使える場所は、この自然堤防の上の部分だけでした。南に川、北に湿地帯です。自然堤防の上で、徳川方約1500、豊臣方約3000の兵が激突しましたが、この地形では勝敗はつきません。陣地を持たない、徳川方は引き下がらざるを得ず、大阪城を構える豊臣方が防衛に成功した形となりました。

以上が大阪城の、北側の守りです。

大坂城の南側の守りとは

ブラタモリ大阪編で取り上げられたように、大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていました。南側はどうだったのでしょうか?

大阪城の南側、上町台地上の城下町には、大阪城へと向かう道路が整備されていました。

大阪城の南側、地下鉄谷町六丁目駅の南東に位置する「上町中学校」のすぐそば(南西側)にある道路です。台地上の平坦な場所にも関わらず、下り坂があります。なぜでしょうか?

ここは、深さ10m、幅30~40mの空堀(=水を流さない堀)の痕跡なのです。空堀に隣接し、土塁も設けられていました。これが大阪城の南側の守りです。自然の地形を使った東、北、西の守りに、南側の空洞を加え、全方向を守る「総構え」です。この付近には、藤堂高虎らが布陣したと思われます。

空堀

出典:空堀散策5

空堀の跡はほとんどありませんが、ブラタモリは、住宅地に残る痕跡を紹介しました。

場所は、田島北ふれあい広場付近です。

さて、南にはこのように、巨大な空堀があったものの、空堀が直線的で、敵に攻略されやすい南東に弱点がありました。

真田丸の姿が明らかに!

大阪城を守る空堀に弱みがある、南東側の弱点を埋めたのが、出城である「真田丸」です。出城とは、本城の防衛や攻撃を補佐する、小規模の陣地のことです。1614年の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)の軍勢が控えた、真田丸の顕著なはたらきで、徳川の大群を撃退しています。

真田丸は、徳川勝利後、忌み嫌うように、完全に破壊されました。そのため史料がなく、絵図にあらわれる真田丸は、大まかに描かれていることが大半です。しかし、今年見つかった、松江歴史館所蔵の絵図は、非常に明確に真田丸が描かれており、画期的なものです。

真田丸

出典:「大坂 真田丸」絵図に描かれた新たな情報について

ブラタモリは、新たな絵図をもとに、出丸跡と思われる場所を探し当てます。玉造駅近くの、大阪明星学園の北側にあたります。

上が、真田丸の出丸があった場所である可能性があります。

 出丸のあった場所?

 真田丸の空堀?(心眼寺と大阪明星学園の間の道)

● 真田丸の東端付近?(心眼寺敷地内。段差になっている)

真田信繁(幸村)らの冥福を祈るために、1622年に創建されたのが心眼寺です。この一帯には、真田丸の痕跡?が見られたものの、幅45mの堀があったはずの南側には見つかりませんでした。徳川方に、1万人の死傷者が出た場所です。それもあって、徳川が、痕跡が残らないほど破壊したと、考えることもできなくはありません。

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