
NHK番組のブラタモリ東京・自由が丘で、タモリさんが自由が丘を訪ねました。このページでは内容の要約やロケ地をお知らせします。
放送中や後日補足します。写真はまだ入っていません。
「日本」の名前が用いられる前の時代、飛鳥で国づくりの基礎がつくられました。1400年も前のことですが今でも遺構が残ります。日本の桜の代表格、ソメイヨシノの名前のもとになった吉野。桜を育てたある石とは? 吉野は長く山伏が活動した山深い場所ですが、桃山時代に豊臣秀吉は徳川家康や伊達政宗を招き華やかな花見を楽しみました。
9月19日(土)19:30から、ブラタモリが78分の拡大版で東大寺を歩きます。テーマは大仏そのものではなく、「大仏ができる前」と「なぜあの場所か」です。キーワードは、別の場所につくられるはずだった大仏、大仏誕生以前の祈りの場、国家プロジェクト、修二会、鑑真、唐招提寺、夜の大仏です。
大仏のはじまりは法華堂から
ブラタモリは、開門前の東大寺からスタート。タモリさんは、早速大仏殿に案内されます。大仏殿は3代目の建物。木造としては世界最大級です。
一方参道は昭和になってからのもの。まん中に敷かれた石は、わざわざインドから。その両側は中国、その外側は韓国、日本と続き、仏教の伝来の順を示します。

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廬舎那仏にタモリさんは参拝。柱の穴をくぐると頭が良くなるとされます。大きさは大仏の鼻の穴くらい。なぜ柱に穴が開いたのかは不明ですが、一説では、大仏の眼球が落ちてしまい、眼球を子どもが引っ張り込みましたが、出てこれなくなり鼻から抜けだし、それが元で「賢い子は通る」柱の穴が作られたともされています。
テーマは1300年続く東大寺、その秘密とは?です。
東大寺の法要は日によって催されるお堂が異なります。ちょうど大仏殿の日で、タモリさんは見学。1300年続いている法要です。
ブラタモリは東大寺の東側を訪ねます。始まりの場所。法華堂は最古のお堂です。山が迫ります。かつては山へ入っての修行も多く行われました。平城京の東に立地し、山房と呼ばれる小さなお堂が多数あり、法華堂もその1つだったと考えられます。
法華堂のなかの仏像は、10体すべて奈良時代に作られた国宝です。不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)は、人々の願いを必ず叶え、強力な投げ縄ですべての苦しむ人々を漏らさず救い上げる仏様です。
743年、聖武天皇は大仏造立の詔を出しました。大仏ができる前から東大寺の東側には、聖武天皇や光明皇后にまつわるお堂が多く建てられていたと考えられます。法華堂は、御子の菩提を弔うためのお堂だったと東大寺は考えています。
法華堂では、華厳経の研究を日本で初めて行った場所と考えられます。その教えに基づいて、大仏が作られたと考えられます。
二月堂も大仏の始まりと関わり
ブラタモリは法華堂に隣り合う、二月堂を訪ねます。旧暦の2月に法要が行われたことから。大仏が立った頃にはあったと考えられます。境内を見降ろす標高が高い場所にあります。
二月堂で行われる修二会(しゅにえ)は、松明の火を使う華やかさもある儀式。十一面観音菩薩に全ての生き物が犯している罪を懺悔するものです。僧侶が人々に代わって過ちや罪を懺悔し、国家の安泰や万民の幸福を祈る伝統的な仏教法要行事となります。いまの建物は江戸時代のもの。2026年に1275回の法会が行われました。
修二会の松明は地域の人々が運んできます。シニア世代が多くなっていますが、竹は1本約45kg。以前はもっと重かったようです。なかなか後継者が出てこないようです。
大仏は別の場所で始まった?
聖武天皇は、平城京から恭仁京・紫香楽宮、そして難波京へと移動しています。聖武天皇が大仏を考案した場所は紫香楽宮(滋賀県甲賀市信楽)。ことによっては、滋賀県に大仏ができたかもしれなかったのです。
滋賀には、大仏に関係する寺院が残っています。
724 即位
732~734 飢饉
734 大地震
735~ 天然痘の流行
「責めは予一人に在り」聖武天皇は強い責任を感じていました。
最初の造立地は紫香楽宮でしたが、ここで作り始めたかもしれない大仏は被災し、745年の平城京還都とともに、もともとゆかりがあった現在の東大寺の地で造り直されました。
東大寺に大仏を作るのは簡単ではなかった?
大仏殿のそばには「猫段」があります。転ぶと猫になると、注意喚起された急な坂です。高低差は15m。
東大寺誕生以前の地形図を見ると、丘陵がいくつも並びます。大仏をつくるにあたり、丘陵の1つを大きく削り、丘陵の端が猫段だったのです。ほかの丘陵も掘削しています。地震に備え、あえて固い地盤が選ばれました。
大仏づくりの絵図を見ると、区別なく大仏づくりに関わることができたため、民衆からもたくさんのボランティアが嬉々として参加している様子が分かります。参加者はのべ260万人にも達しました。奈良時代の人口は500万人余りでした。
全国から集められた金銀
大仏の銅は長門国(山口県)、金は陸奥国(宮城県)から運ばれました。鋳造は8回に分けて行われています。行基ら民間の僧が、人々の協力を集めました。大仏殿の東西には七重塔が建っていました。大仏の台座には創建期の蓮弁と、その線刻画が残ります。
風呂の跡
大湯屋(非公開)は蒸し風呂(サウナ)の跡です。いまでもお風呂で極楽、極楽というのはお寺の名残りともされ、銭湯もお寺が由来という説もあります。大仏が作られた時代にもお風呂はあったと考えられます。
戒律を学ぶ
タモリさんは大仏殿の裏側を訪ねます。礎石が残ります。僧が学ぶ講堂があった場所です。取り囲むように僧堂がありました。最澄や空海もここで学びました。
誰もが学べた訳ではなく、戒律(僧侶のルール)を習う、授戒を受けることが必要でしたが、日本には師僧が足りませんでした。聖武天皇は、中国から師僧を招きます。それは12年もの歳月をかけ日本を訪ねた鑑真和上でした。聖武天皇はじめ440人にまず戒律を授けました。
鑑真和上の来日
日本の朝廷は戒律を伝える師を求め、遣唐使に同行した栄叡と普照が鑑真に来日を要請しました。鑑真は5度の渡航に失敗し、視力を失いながら753年に来日します。754年に東大寺で戒壇を設けて聖武上皇らに授戒し、759年に唐招提寺を創建しました。唐招提寺で外せないのは講堂です。平城宮の東朝集殿を移築した建物とされ、平城宮の建物が現存する貴重な例です。
唐招提寺
鑑真和上は、唐招提寺を建立。平城京の建物を移築したのが国宝の講堂。校倉造りは奈良時代からあったもの。唐招提寺ができる前からありました。もとは新田部親王が下賜した平城京の一等地で、米蔵だったと考えられます。
ブラタモリは鑑真和上坐像のお身代わり像を見学します。
西に和尚、東に弟子が座り問答をし、多くの人が見学ができる論議台。東大寺での役割を果たした鑑真和上は、多くの人に教えを伝えたかったのです。
よくたもつや否や? よく保つの形で、教えを伝えました。
鑑真和上が他界した後、弟子が建てた金堂を訪ねます。ブラタモリは、薬師如来立像、廬舎那仏などを見学しています。
その他の見どころ
南大門と金剛力士像、転害門、法華堂の諸像、正倉院。転害門は創建期から残る数少ない門です。南大門は鎌倉時代に重源が再建した、大仏様の建築です。
旅の終わりは夜の大仏殿。大仏殿背後の観相窓が開き、大仏の顔が浮かびます。お盆の夜、大晦日から元旦の2回だけ拝むことができる姿です。
「日本」の名前が用いられる前の時代、飛鳥で国づくりの基礎がつくられました。1400年も前のことですが今でも遺構が残ります。日本の桜の代表格、ソメイヨシノの名前のもとになった吉野。桜を育てたある石とは? 吉野は長く山伏が活動した山深い場所ですが、桃山時代に豊臣秀吉は徳川家康や伊達政宗を招き華やかな花見を楽しみました。

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