【ブラタモリ桶狭間の戦い 全ロケ地】劣勢の織田信長はどのように強豪・今川義元を破ったのか 新#32・33

とらべるじゃーな!
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ブラタモリ桶狭間の戦い編で、タモリさんが名古屋市と豊明市にまたがる「桶狭間古戦場」を訪ねました。このページでは内容やロケ地をお伝えします(再放送・見逃し情報はこちら)。

一部編集中です。随時更新します。

【ブラタモリ見逃した?】再放送、過去放送の視聴方法

😎名古屋
(#75,#76,#90)名古屋の地形は舌の形?
😎は現地取材

桶狭間とは?

中京競馬場前駅から徒歩すぐの場所にある、桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市)。写真左側の公園部分が古戦場跡(決戦地、今川義元が落命)、右側の坂の上の寺院が今川本陣跡とされています。

古戦場跡と本陣跡の組み合わせは、名古屋市が別所を主張しており近年はその主張が有力視されています。しかし広い意味では古戦場の一部だった可能性もあり、また高地に本陣、低地に古戦場(落命地)の組み合わせ自体は両市で違いがありません。

古戦場伝説地の向かいの寺院ぼ境内には「今川義元公本陣跡」の石碑が建っています。

今川義元本陣は高台の中腹辺り、古戦場(落命地)はその下という概念となります。なお、今川義元は沓掛(くつがけ)城から尾張の要衝である大高城を目指していたと考えられます。いずれも桶狭間の戦いの直前には、今川勢が押さえていました。

※この記事では後編で紹介が見込まれる桶狭間古戦場公園(名古屋市)やその周辺の紹介は、いわゆるネタバレとならないよう最小限にとどめています。

ブラタモリ桶狭間

ブラタモリは、今川義元・織田信長の像の前からスタート。

名古屋市側が主張する古戦場跡(今川義元落命地)は、桶狭間古戦場公園。今川義元、織田信長双方の像が置かれています。

うつけ者と呼ばれた奇抜なスタイルの織田信長像 安土城郭資料館

桶狭間の戦いは、弱小勢力で「うつけ者」とも言われ信頼を得ていなかった織田信長が、大軍勢の今川義元を倒した戦いです。尾張1国を支配し無名の織田(当時は27歳)に対し、今川義元は駿河、遠江、三河を支配(当時42歳)。桶狭間での軍勢は3000対25000でした。テーマは、なぜ織田が勝てたのかです。

※駿河は静岡県中部、遠江は静岡県西部。

大高城VS善照寺砦

ブラタモリは大高地区を訪ねます。中学のときに叔父がこの辺りに住み姉と一緒に訪ねた思い出があるタモリさん。保育園児の一行とすれ違い細い路地へ。ブラタモリならではのルートです。

>>JR大高駅から徒歩圏、バス便もあり。

保育園をすぎると土塁があり、空堀の跡が見つかります。通常大高城は北側から訪ねますが、南側から訪ねています。

大高城の二の丸を訪ねます。桶狭間の戦いの直前、大高城は今川義元が押さえていました。

※以下しばらく赤字は今川方を示します。

地理院地図を加工

大高城は、伊勢湾の水運とつながり、後の東海道を押さえ、さらに知多半島の首根っこを押さえる要衝中の要衝。高台にあり、当時の町並みなら清洲城一帯も見えたかも知れません。桶狭間の戦いの隠れた中心は、大高城の存在です。

左端に鷲津砦

大高城から見える高台の左端に鷲津砦、右端に丸根砦があり、織田は2つを押さえました。その北に鳴海城がありましたが寝返りで今川方に。織田は、善照寺砦も作り今川に対抗します。

※現地では右端の丸根砦はお寺の屋根の方向に見えます。

桶狭間の戦いの年の5月19日の未明、今川は松平元康(後の徳川家康)に命じ大高城に兵糧を入れさせ守りを固めます。松平は鷲津砦を落とし、別部隊により丸根砦も今川方に落とされ、織田信長自ら善照寺砦に入ります。

ブラタモリは善照寺砦(砦公園)を訪ねます。砦は高台にあり、今川方に寝返った鳴海城は目と鼻の先。丹下砦(山すそ)、中島砦(比較的低地)も使い、鳴海城を包囲します。

善照寺砦に入った織田が最も重視したのは情報でした。織田は各地に諜報部隊を派遣し、今川方が5月19日の朝8時に沓掛城から大高城に向かっているとの情報を手に入れます。

信長は2人の重臣を派兵しますが、失敗に終わります。

信長、善照寺へ御出でを見申し、佐々隼人正、千秋四郎二首、人数三百計りにて、義元へ向つて、足軽に罷り出で侯へば、瞳どつとかゝり来て、鎗下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死侯。
→信長の2人の重臣が300人を連れて攻めかかったが討ち死にした。

大きな痛手を被った信長は善照寺砦に多数の旗を残したまま、低い場所にある中島砦へ向かいます。旗を残したのは、本隊の移動を悟らせないためでした。

ブラタモリは、鳴海駅が見え近くに川の流れる中島砦へ移動します。

引用 https://wheatbaku.exblog.jp/32804081/

中島砦は2本に分かれた川に挟まれ、かろうじて守りを固めていた湿地帯の中州だったと考えられます。それでも低地は危険であり、信長は部下の反対されながらも中島砦へ移ります。

信長御覧じて、中島へ御移り侯はんと侯つるを、脇は深田の足入、一騎打の道なり。無勢の様体、敵方よりさだかに相見え侯。勿体なきの由、家老の衆、御馬の轡(くつわ)の引手に取り付き侯て、声々に申され侯へども、ふり切つて中島へ御移り侯。
→敵から丸見えの中島への移動を家臣は馬のくつわ(馬の口まわりの制御装具)をつかんで制止しましたが信長は聞きません

桶狭間古戦場公園内では、今川、織田の進軍ルートが確認できます。今川義元は沓掛城に宿泊。東浦街道という高台のキワを現在の名鉄前後駅方面に進軍。進路を変え、桶狭間に一時本陣を置いたと考えられます。織田軍は、おおむね善照寺砦・中島砦から現在の東海道周辺の山地を抜けて桶狭間に進軍と考えられます。ただし軍をいくつかに分けていた可能性もあり、進軍ルートは諸説あります。

🕶タモリさんからのメッセージ🕶
桶狭間の戦いのイメージが変わりました。やっぱり歩かないとわからないですね。普通に考えれば負けたはずなのに、こんな大逆転があったのかと。知らないことだらけでした。個人的には少年時代の記憶と重なる旅でもあり、面白かったです。

😎名古屋
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