【写真14枚】富岡製糸場の見学所要時間と見どころ・楽しみ方を分かりやすく!

富岡製糸場を初めて訪ねるなら、見どころ、楽しみ方や、見学所要時間を知っておくことが必要です。この記事では、年間50泊の旅行ブロガーが、分かりやすくご案内します!

富岡製糸場の見どころ、見学所要時間
  • 富岡製糸場で外せないのは、東置繭(おきまゆ)所と繰糸場(そうしじょ)の2か所の国宝です。
  • 次に見るべきは、検査人館、女工館、首長館の重要文化財3か所です。
  • 上記5カ所を急いで回るなら、見学時間は40分程度です(写真撮影含む)。東置繭(まゆ)所に設置された、ビデオや解説を見るなら+30分。
  • この記事は、東置繭(まゆ)所の20分間のビデオ解説を要約したものです。
後悔しないために重要です!
アクセス … 高崎駅から上信電鉄に乗り、上州富岡駅で降り徒歩15分。歩き方は、駅前に地図や観光マップ置き場があるのでカンタンです。
ガイダンス … ガイドツアー(200円)、有料ガイド機(200円)、スマホ(QRコード)の音声ガイドの3種類。
その他の施設
・西置繭所 … 国宝。2000年5月下旬まで工事中。近代的なホールに改装予定。
・給水塔、蒸気釜所、煉瓦積み排水溝 … 重要文化財(非公開)
・鉄製煙突基部、旧候門所(記念碑のみ残存) … 重要文化財の附(つけたり)指定

ひと目で分かる|富岡製糸場の見学コース

  1. 正門つきあたりの東置繭(おきまゆ)所で、まず解説資料やビデオを見る人が大半です。
  2. つぎに、東置繭(おきまゆ)所を出て、検査人館・女工館を左手に見て、繰糸場(そうしじょ)、首長館とまわるコースがおすすめです。

富岡製糸場の20分の解説ビデオを3分に要約!

この写真は、東置繭(おきまゆ)所の右側で撮影できます。繰糸場(そうしじょ)と逆側のため、見落とす人が多いです。

東置繭(おきまゆ)所の20分間の解説ビデオを3分にまとめました(多少、情報を足してあります)。これを移動中に読んでおくと、富岡製糸場で時間を取られずに楽しむことができます。

そもそも、富岡製糸場とは?

富岡製糸場は、明治5年(1872年)に操業を開始した、世界最大級の製糸場です。

富岡とは、群馬の地名です。製糸場は、高級素材のシルク用の糸を作る工場です。糸はカイコガの幼虫が作るまゆが、糸の原料です。

なぜお手本の製糸場が、群馬の富岡に?

明治維新直後、日本は、生糸(=カイコのまゆから作る。シルクの原料)の輸出に力を入れていました。しかし、技術力が低く、海外での評判は良くありませんでした。そこで政府は、横浜で生糸の検査官をしていた、フランス人のポール・ブリューナ氏に、お手本となる工場の建設を依頼します。

ポール・ブリューナ氏は、東京都、群馬県、長野県などを回り、モデルとなる国営製糸場にふさわしい場所を探しました。なぜ、不便な冨岡が選ばれたのでしょうか?

冨岡が選ばれたのは、周辺で養蚕(ようさん)が盛んであり、土地が十分に空いていること、さらに、カイコの住まいを暖める動力源となる石炭が、豊富に産出したことなどが理由でした。

富岡製糸場は、レンガのほかに木を使っている?

富岡製糸場は、現在も保存状態が良いため、日本の近代化の象徴として世界遺産に選ばれました。

上の写真は、国宝の東置繭(おきまゆ)所です。ガの一種であるカイコが、まゆを作るのは、年に1度きりのため、大規模な貯蔵庫が必要なのです(2階に保管、1階は作業場)。

カイコは野生では生きることができず、唯一の家畜化された昆虫として、知られています。

富岡製糸場は、レンガで作られた大規模建造物で唯一現存しているものです。

ポール・ブリューナ氏は、日本の大工の腕と、西洋の技術を折衷させる方法として木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)を導入しました。木で枠組みを作り、間にレンガを積む工法です。

群馬の硬い地盤で、建物を支える礎石(そせき)

長い柱を支える礎石は、冨岡の建物の固い地盤に食い込み、今でも寸分のズレなく建物を支えています。冨岡の強固な地盤と、日本の丁寧な建築技術が、建物を長期に渡り生かし続けているのです。

富岡製糸場のレンガは、縦、横を交互に積むフランス積みが基本です(一部例外あり)。

レンガ、目地、礎石の全てが群馬産!

レンガ、目地、礎石の全てを、周辺で調達することができました。

  • 地図:●印 富岡製糸場
  • 地図:印 レンガは甘楽町(かんらまち)福島産。瓦職人が、製造を請け負いました。
  • 地図:印 レンガの目地は、下仁田(青倉・栗山)産。原料は石灰石。
  • 地図:印 柱を支える礎石は、甘楽町小幡産。砂岩を用いています。

明治5年から動いている繰糸場(そうしじょ)が、なぜ残っていたの?

写真:内部が写真になることの多い、国宝・繰糸場(そうしじょ)の外観

明治5年(1872年)に操業を開始した富岡製糸場が、なぜそのまま残っていたのでしょうか?

富岡製糸場以外の製糸工場は、技術の進歩や機械の大型化に合わせ、何度か建て直されています。富岡製糸場は、民間に払い下げられたあとも、建て直しはありませんでした。

写真:国宝・繰糸場(そうしじょ)の内部

冨岡製糸場が建て直しをまぬかれたのは、柱のないトラス構造によります。トラス構造とは鉄橋のように、三角形を使って強度を保つ構造です。ブリューナ氏がヨーロッパから導入しました。

広大な柱のない空間を持つ、富岡製糸場の繰糸場(そうしじょ)は、機械の大型化があっても取り壊す必要はありませんでした。

繰糸場(そうしじょ)は、なぜ縦長?

繰糸場(そうしじょ)はじめ、富岡製糸場の建物が、非常に横に長いのはなぜでしょうか

これは石油ランプがようやく普及し始め、大がかりな照明設備が難しい日本に合わせ、少しでも自然光を取り入れようとの工夫です。日本人の体格に合わせ作業台も低めに設計されました。

なお、建物に利用されたガラスも当時としては珍しいものでしす。

そのまま残された日本独自の2度巻き

出典:http://es.ipcdigital.com/

ブリューナ氏は富岡製糸場を建てる前に、日本の手作業の製糸技術を見学しています。そのときに気づいたのが、1度巻いた生糸を2度巻きする工程です(揚げ返し)。なぜ当時、このような一見ムダな工程が存在したのでしょうか?

これは湿り気への対策でした。日本の湿潤な気候では、良い生糸を作るために、この揚げ直しが必要不可欠だったのです。ブリューナ氏はヨーロッパの機械をそのまま取り入れるのではなく、改良することにしました。

下水を完備した清潔で近代的な工場

出典:筆不精者の雑彙

明治初期の工場には、下水設備がないことが当たり前でした。しかし、富岡製糸場は、強度を高めるために、壁をセメントに、天井をレンガによるアーチ形とした下水を完備していました。

これによって、下水をため込むことのない衛生的な工場が誕生したのです(下水道は非公開)。

富岡製糸場は、元祖ブラック企業?
・冨岡製糸場が世界遺産に決まったとき、元祖ブラック企業では?という声がネット上に出ました。しかし、富岡製糸場は当時としては画期的な日曜定休で、年間の休日も保証されており、主に良家のお嬢様が働きに来ていました。
・飛騨高山から野麦峠を越え、岡谷・諏訪まで歩いた『あゝ野麦峠』のイメージと混同があったようです。ただし、岡谷で働いた女工たちも、飛騨高山の農家よりは楽という声も多かったようです。

鉄の水槽に見られる最新の技術

出典:筆不精者の雑彙

製糸場は大量の水を使用します。開業当初、水槽はレンガとセメントで作られていました(非公開)。その後、水漏れが起こり、水槽は当時珍しい鉄製となりました。造船技術のリベット打ちの技術を転用して、作られています。

(参考)水槽の近くにある鉄製煙突基部には、今では利用が減った四角のボルトが使われています。

富岡製糸場の指導者ブリュナ氏の功績

写真は、富岡製糸場の指導者ブリュナ氏が住んでいたブリュナ館です。明治4年、役目を果たしたブリュナ氏は、富岡の地を去りました。

ブリュナ氏が去った後も富岡製糸場が長く日本人に守られてきたのは、なぜだったのでしょうか? それは、ブリュナ氏が、日本人の技術や風土をよく観察、理解し、ヨーロッパの技術をそのまま持ち込むのではなく、日本の良さを生かそうとしたところに要因があります。

冨岡製糸場は日本の近代化を知る機会となるだけでなく、どのように国と国、人と人が良い関係を築けるかの良い手本になっています。いまもブリュナ氏が日本人に慕われていることは、「理解してから理解される」という人間関係の原則の正しさを証明しているようにも見えます。

以上をご覧の上で「富岡製糸場」を訪ねれば、面白くない、一度見れば十分とはならないはずです。ランチやカフェも良く探せば当たりがあります。詳しくは下の記事で。

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