【ブラタモリ行田 全ロケ地】タモリさんが埼玉の原点(古墳、忍城)を歩く#242

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ブラタモリ行田編で、タモリさんが、埼玉の原点・行田を紹介します。このページでは、ブラタモリ行田編の、内容、ロケ地、アクセスを分かりやすくご紹介します。

下のリンクで「ブラタモリ」の体験視聴をご案内中です(「どうする家康」は初回から視聴OK)。

埼玉でブラタモリ内容
😎現地取材 行田(#242)タモリさんが、旅のお題「埼玉はじまりの地 行田ってどんな所?」を探ります。
😎現地取材 深谷(#177)渋沢栄一関係の遺構など、たくさんの見どころがある隠れ名所です。
😎現地取材 長瀞(#80)長瀞の地形は、南洋から押し寄せるプレートが地表に飛び出したもの! 地球の窓とも呼ばれます。
😎現地取材 秩父(#79)秩父と言えば、石灰岩の武甲山。なぜ海のない埼玉県の秩父で、サンゴ由来の石灰岩がとれるのでしょうか?
😎現地取材 大宮(#77)1度は発展に取り残された大宮。森鴎外、正岡子規、夏目漱石ら、著名人が訪ねたある場所が起爆剤になった?
😎現地取材 小江戸・川越(#9)川越の蔵の町並みは、江戸時代の江戸の町並みと瓜二つ。なぜ江戸と同じ建築が川越に広がったのでしょうか?

行田とは?|ブラタモリ行田

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ブラタモリは、埼玉県の北部に位置する行田市を訪ねます。新幹線駅でいえば、熊谷に近い場所です。

行田は、関東七名城の1つとうたわれた、忍城おしじょうの城下町として発展した宿場町です。

ブラタモリは、前玉(さきたま)神社を訪ねます。(地図

アクセス さきたま古墳群のそば。最寄りの秩父鉄道の行田市駅から徒歩約35分の道のりですが、JR行田駅(東口)から市内循環バス「観光拠点循環コース」で訪ねることもできます。さきたま古墳にも、前玉神社にも駐車場があります。

前玉神社の境内のひとコマです。地元のテクノ・フォルティ園芸専門学校の生徒作品です。

前玉神社前にある、古墳最中のお店(金沢製菓)に、タモリさんは大興奮。

タモリさんは古墳型の最中を想像しましたが、実際は円形の最中です。あんが多く、味は絶品。ネコがいる前玉神社にちなんだ、ゆずあんのねこもなかもおすすめです。

前玉神社の近く(クルマで10分)には、埼玉(さきたま)の地名。

この地区こそ、埼玉県の地名の由来になった場所です。

壮観!東日本最大級の古墳群|ブラタモリ行田

秩父鉄道 行田市駅前
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ブラタモリは、前玉神社に近いさきたま古墳群(埼玉古墳群)を訪ねます。

アクセス 最寄りの秩父鉄道の行田市駅から徒歩約35分の道のりですが、JR行田駅(東口)から市内循環バス「観光拠点循環コース」で訪ねることもできます。

タモリさんが最初に訪ねた「丸墓山古墳」は、日本一高い円墳。登ることもできます。番組では構成の関係であまり触れませんでしたが、石田三成が忍城攻めの陣を構えた場所と伝わります。

頂上からは、さきたま古墳群で最大規模の「二子山古墳」や、さきたま古墳群では最古の「稲荷山古墳」(こちらも登頂可能、国宝となった鉄剣が出土)など、数多くの古墳を見ることができます。

稲荷山古墳から出土した鉄剣は、出土金錯銘鉄剣と名づけられています(国宝)。

(表)辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
(裏=写真)其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

裏面の「杖刀人首じょうとうじんのおびと」は、王の警護隊の隊長がいたという証拠。大和朝廷の王様の側近となって活躍した人がこの地にいたことを示し、行田と中央の結びつきを示します。

表面の「辛亥年」は、西暦471年という説が有力。年代が明記された遺物は、東アジア全体でも珍しく、歴史を調べるうえで非常に貴重なものです。

金錯銘鉄剣は、さきたま古墳内にある、埼玉県立さきたま史跡の博物館に所蔵。

埼玉県立さきたま史跡の博物館(2023年7月現在の情報)

開館時間
午前9時~午後4時30分(入館受付は午後4時まで)
※7月1日~8月31日 午前9時~午後5時(入館受付は午後4時30分まで)

休館日
・月曜日(祝日、振替休日、埼玉県民の日(11月14日)を除く) 
・12月29日~1月3日
※その他臨時に休館する場合があります。

さきたま古墳群は、利根川と荒川に挟まれたエリアですが、かつては川が無数に枝分かれし、水上交通や物流の要所でした。

そのため、奈良時代には埼玉(さきたま)郡、明治時代には埼玉(さいたま)県と、広い地域の呼び名に採用されました。

さきたま古墳群の全容

さきたま古墳群のなかでは最大規模を誇る「二子山古墳」、さきたま古墳群のなかでは最も古く、鉄剣出土の「稲荷山古墳」、そして戦国時代の戦いの舞台(石田三成陣地)ともなった「丸墓山古墳」(タモリさんが登頂)が一般的には、見どころです。

正門に近く、訪ねる人を最初に出迎える愛宕山古墳は、全体の中ではわき役的な位置づけ?ですが、水に浮かぶさまが印象的な絵になる、かわいらしい古墳です。

「二子山古墳」が最大。埼玉古墳群の中で、またかつての武蔵国の中で最大の規模を誇ります。

二子山の名の通り、側面から見ると二つの山のように見えます。

「稲荷山古墳」は、さきたま古墳のなかでは、最も古い古墳で、国宝の鉄剣が出土。タモリさんが登頂した「丸墓山古墳」同様、上に登れることが特徴です。

稲荷山古墳は、上に登ると、手前が四角く奥が円形。前方後円墳であることが、体感できる古墳です。

石室が再現されている将軍山古墳も、訪ねる人が目立ちます。

おすすめのコース さきたま古墳群は、秩父鉄道の行田市駅から徒歩約35分。JR行田駅(東口)から市内循環バス「観光拠点循環コース」で訪ねることもできます。

さきたま古墳群正門(駐車場)→愛宕山古墳(かわいい)→二子山古墳(最大)→将軍山古墳(石室再現)→稲荷山古墳(登れる、鉄剣出土)→丸墓山古墳(タモリさんが登頂)→(駐車場に戻り車道渡る)埼玉県立さきたま史跡の博物館→(車道経由、徒歩数分)古墳最中の店と前玉神社

※クルマの方は、前玉神社から南へ10分、行田市立埼玉中学校の周辺へ。「埼玉」の地名が見られます。

怪奇現象!消えた古墳群の謎|ブラタモリ行田

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ブラタモリは、消えた古墳群である、酒巻古墳群を訪ねます。酒巻会館(地図)に案内板が立っています。

写真の付近の地下などに、古墳(酒巻古墳群)が埋まっています。近くを流れる利根川の土砂によるものです。

酒巻古墳群(行田市)

ブラタモリが訪ねたのは、14号墳が発掘された場所です。

周囲は山(富士山、関東山地、赤城山、足尾山地)に囲まれ、周辺のみ平らになっています。

地形図を見ると、関東平野全体が、洗面器のような地形となっています。これは、約12万年前に、関東盆地の周囲がより速く隆起した、関東造盆地運動によるものです。これにより、川の土砂が溜まりやすくなり、利根川に近い酒巻古墳群は、埋まってしまいました。

“難攻不落”…にはとても見えない平城「忍城」が最後まで落ちなかった理由とは|ブラタモリ行田

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ブラタモリは、忍城跡を訪ねます。復元された御三階櫓がその中心です。

アクセス 秩父鉄道の行田市駅から徒歩約12分。(さきたま古墳群から徒歩35分)

成田氏によって築城され、典型的な平城(平地の城)ですが、石田三成による忍城水攻めにも耐え、難攻不落と称されました。

タモリさんは、忍城の博物館や駐車場の向かい忍東照宮内に残る、土塁を見学しています。同時に、すぐ左手の忍東照宮の石段が、土塁の高さと一致し、一続きであることを確認します(写真を左にパンし、歩道橋の足元)。

この土塁がはさらに続きますが、忍城博物館駐車場入口の辺りに切れ目(道路にあたる)があります。ここは、堀だったのです。

忍城博物館駐車場が、本丸があった場所です。

忍城は、周囲の川の流れを最大限に利用し、堀が巡らされ「忍の浮城」と呼ばれました。また、水が多く、平地が多く、さらに日照条件も良いことから、米が多く取れ、忍城の繁栄をもたらしました。

豊臣秀吉が天下統一を進めた1590年、秀吉は、北条氏の小田原城を攻めます(ブラタモリ小田原編)。忍城は北条氏方につきました。

秀吉の命を受けた家臣の石田三成は、忍城を水攻めにします。その折、城がよく見える丸墓山古墳の上に陣を張ったという伝承が残されています。丸墓山古墳へと続く道(上の写真)は、水攻めの時築かれた堤防の跡といわれ、「石田堤」と呼ばれています。

堤は、忍城の南側(下流)を固め、忍城を水浸しにしようというもの。

秀吉の威信をかけて、壮大な規模となりましたが、城攻めはうまくゆかず、北条氏の陣営の城としては、最後まで残りました。

ブラタモリでは、丸墓山古墳のそばの石田堤は紹介せず、行田市南部の石田堤跡(石田堤歴史の広場とその周辺)を紹介しています(地図)。

“のぼう様(でくのぼうの意)”と領民から慕われる忍城代・成田長親(演・野村萬斎)は、天下統一を目指す豊臣秀吉方2万人の大軍を指揮した石田三成の水攻めに、わずか500人の兵で対抗する。

出荷額日本一!「行田足袋」の始まりは宿場町|ブラタモリ行田

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ブラタモリは、忍と行田の境目(忍1-5-2付近、地図)を訪ねます。

古地図を見ると、忍が武士の町、行田が町人の町だったと分かります。通常なら、現在「忍市」となっているはず。なぜ、行田市となったのでしょう? これには、ある特産品が関わっています。

肥沃な土地に恵まれた行田では、綿花の栽培が盛んで、それを原料に足袋づくりが始まりました。

江戸時代中期には忍の名産品として知られるようになり、近代にはミシンが使われるようになったことで生産が増大。最盛期である戦後すぐには、全国シェアの約7割を占めました。今でも出荷額は日本一です。

忍城とさきたま古墳群のちょうど中間にあるホテルです。徒歩の旅には特におすすめ。

江戸から明治へ!町の変遷を物語る街中の謎の通路とは?|ブラタモリ行田

引用 千人同心街道歩き旅 4(日光方面へ)
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ブラタモリは、城下町の町家のエリアを訪ね、幕府や領主によるお触れ(法令)を掲げた、高札場の跡を発見します(武蔵野銀行のそば、地図)。

人通りが多い場所だったはずです。古地図を見ると、江戸や八王子、日光へ続く街道が見られました。このことで、行田では足袋が売れました。

引用 千人同心街道歩き旅 4(日光方面へ)

日光へ向かう道筋の、十万石ふくさや(十万石まんじゅう)の本店は、もとは呉服屋ですが、足袋蔵(足袋の倉庫)としても使われたことがあります(国の有形文化財、ブラタモリでは扱いなし)。

ブラタモリは、明治時代に創業した足袋商店だった、有限会社大木商店を訪ねます(ジャパンフードの右隣、地図)。細長い不思議な扉があり、タモリさんは、許可を得て中を見学します。

奥まで、細長い通路が続いており、店舗、住宅、旧足袋工場と並んでいました。工場の奥には、石造りの壁があります。これは、行田の象徴の1つ足袋蔵(足袋の倉庫)です。

足袋工場と足袋蔵は、明治以降にできたもの。江戸時代は、どのような場所だったのでしょうか?

江戸時代は、庭。馬を休ませる場所だったのです。江戸時代、行田は馬の世話をする役目を、課されていました。

足袋ラベルのコレクション

忍が武士の町、行田が町人の町。通常なら、現在「忍市」となっているはずが、足袋が有名になり、行田市となったのです。

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埼玉でブラタモリ内容
😎現地取材 行田(#242)タモリさんが、旅のお題「埼玉はじまりの地 行田ってどんな所?」を探ります。
😎現地取材 深谷(#177)渋沢栄一関係の遺構など、たくさんの見どころがある隠れ名所です。
😎現地取材 長瀞(#80)長瀞の地形は、南洋から押し寄せるプレートが地表に飛び出したもの! 地球の窓とも呼ばれます。
😎現地取材 秩父(#79)秩父と言えば、石灰岩の武甲山。なぜ海のない埼玉県の秩父で、サンゴ由来の石灰岩がとれるのでしょうか?
😎現地取材 大宮(#77)1度は発展に取り残された大宮。森鴎外、正岡子規、夏目漱石ら、著名人が訪ねたある場所が起爆剤になった?
😎現地取材 小江戸・川越(#9)川越の蔵の町並みは、江戸時代の江戸の町並みと瓜二つ。なぜ江戸と同じ建築が川越に広がったのでしょうか?

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