【ブラタモリ岐阜】タモリ推奨の岐阜の歴史・地形・観光ルートまとめ #92

NHK番組のブラタモリ岐阜編で、タモリさん推奨の岐阜の歴史・地形を踏まえた観光ルートが紹介されました。この記事では、ブラタモリ岐阜編推奨のルートを、アクセスなどの情報とともに紹介します。

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ブラタモリ岐阜へ

名古屋の北30キロにある岐阜市の象徴は、頂上に岐阜城が立つ金華山と、ふもとを流れる長良川です。岐阜は、織田信長が全国統一の拠点とした場所。岐阜を命名したのも織田信長です。

長良川の鵜飼い:ブラタモリ岐阜

岐阜の独自の文化が鵜飼(うかい)。鵜を使って鮎(あゆ)などを獲る、1300年以上の伝統がある漁法です。ブラタモリ岐阜編は、鵜飼の船上からスタート。ブラタモリのテーマは、岐阜は 信長が夢見た“平和の都”!? です。

織田信長は、泣かぬなら殺してしまえホトトギスと喩えられるように、冷徹なイメージもありますが、平和を望んでいた側面も強くありました。織田信長は、鵜飼を含め、様々な文化を利用したもてなしが得意でした。タモリさんは、鵜飼で採れた鮎を試食します。

お腹を空かせた鵜は、鮎を捕まえますが、喉にヒモを巻かれているため呑み込めません。現在鵜飼によって捕れた鮎はほとんど流通しておらず、鵜飼は観光用に行われています。観光客に鵜飼を見せたあと、鵜は自分が捕った鮎を食べられるとのことです。

岐阜城(山頂駅):ブラタモリ岐阜

岐阜城は、長良川のほとり、標高329mの金華山の山頂に建てられています。ブラタモリは、ロープウェイで岐阜城を目指します。ロープウェイから山肌を見ると、城に適した急峻な地形であることが分かります。

岐阜城は、急峻な地形を利用した山城であり、難攻不落という評価もありますが、歴史上5回の落城があります。その理由は、利用できる土地が狭く、随所に置かれた防衛のための陣地(曲輪=くるわ)が狭く、防衛力を高められなかったからではないかと言われます。

金華山山頂には、リス村があります。いつものブラタモリならほとんど触れない観光スポットですが、今回はタモリさんもじっくり見学します。するとタモリさんは、リス村が、山頂としては平らであることに気づきます。なぜなのでしょうか?

リス村の場所には、弾薬庫があったのです。急峻な金華山は、ところどころが平らにならされ、様々に活用されていました。

ブラタモリは、金華山の地層を見学します。チャートの地層です。

  • チャート:放散虫などの殻や骨のかけらが、海底に堆積してできた岩石。何らかの理由で地上に出ているものもある。硬さが特徴で釘が打てないほど。

※リス園、チャートを見られる場所は、いずれもロープウェイ山頂駅のすぐ近くです。

金華山は、硬いチャートが長良川によって時間をかけて削られ、残った場所です。金華山に建つ岐阜城は、濃尾平野のどこからも見ることができる場所にあります。

ブラタモリは、ロープウェイの山頂駅(リス園、チャートの観察場所)から石段の上を歩き、天守閣へ移動します。この石垣は、山頂部の谷間を埋めるように2段階に積まれています。これにより、谷間を含め両側を一体化し、2つの建物を回廊で渡し、大きな建築物を建てたと考えられています。これは、四方に城の雄大さを誇示し、戦国時代から平和な世の中へ転換するための方策だったとも言えます。

岐阜城になぜリス園?

天下布武の象徴だった岐阜城は、徳川家康の世になると、敵方の城として廃城となります。江戸時代には放置され荒れ果てました。明治時代になり、観光用に天守が復興されます。昭和期には、ロープウェイ、リス村、展望レストランなどの集客用の開発が進みましたが、石垣の一部は取り壊されました。今後は、回廊の復元など、遺産としての価値を高めることが期待されています。

岐阜城(山麓駅):ブラタモリ岐阜

ブラタモリは、ロープウェイで山麓駅に戻り、信長公居館跡を訪ねます。

織田信長が住んでいた場所ですが、現在は遺構が残るのみです。

織田信長の居城

  • 那古屋城 … 織田信長が生まれたとされる城。やがて廃城となり、近くに徳川家康が名古屋城を築城。
  • 清須城 … 交通の要所で、尾張の中心とした発展。その後、廃城。遺構が残るのみ。
  • 小牧山城 … 美濃攻略の拠点として居城。その後、廃城。遺構が残るのみ。
  • 岐阜城 … 天下統一の足がかりとした城。徳川家康の手で廃城。
  • 安土城 … 天下人として建てた城。庶民の見学も許され、平定の象徴となった。
織田信長公居館跡 発掘調査

信長公居館跡からは、チャートが褶曲(しゅうきょく)した地層を見ることができます。高さ35mあるこの地層は、人の手で削られ露出したものです。なぜ、固い地層を削り取ったのでしょうか?

これは、織田信長が庭園の一部として、岩肌を見せたかったことにあります。信長は、岩肌に水を流し、滝までも作っていました。信長は、この場所に来賓を招き、迎賓館や庭園のように使っていました。これは、権勢を印象づけつつ、和睦を進める狙いがあったと思われます。

織田信長のもてなし

金華山を眺める長良川沿いのある旅館では、織田信長が客人をもてなした料理を再現しています。

(例)二膳 天正10年(1582年) 5月15日 安土城での徳川家康へのおちつき膳より

  • ふと煮(干なまこを戻し味噌で煮た物)
  • 貝あわび(蒸し鮑)
  • 巻するめ(するめを戻し足を中に巻き煮た物)
  • 鮎の寿司(なれ寿司)
  • 水あえ(細切りにした食材を煎酒と酢で和えたもの)
  • 鴫つぼ(茄子シギ焼の事)

※詳細は、楽天の「信長おもてなし御膳プラン」にあります。岐阜城での料理も準備されています。

岐阜城の城下町:ブラタモリ岐阜

金華山麓を離れたブラタモリは、堤防の跡を訪ねます(印)。その後、川原町の街並みを眺め(印)、水うちわの住井冨次郎商店(印)へ向かいます。

かつての堤防の跡です。現在は堤防の向こうに川原町が広がります。川原町の位置を古地図をで確認すると、川中島(川の中州の島)であったことが分かります。川中島は、かつては川港の機能を果たしていたのです。

川中島だった場所は、現在は川原町と呼ばれ、空襲を逃れ、岐阜の古い街並みが残された観光名所です。

川港に水運によって運ばれたものの1つに、和紙があります。長良川の上流は、原料のこうぞの産地でした。織田信長は、きらびやかな高級和紙を使った書状を全国に送り、その権勢を示しました。岐阜には、和紙を使った産業が今も栄え、岐阜提灯、岐阜和傘は、よく知られています。

岐阜の伝統工芸品で、今に残るものの1つが、水うちわです。ニスによって仕上げられ、美濃和紙の薄く丈夫な性質を生かしています。住井冨次郎商店(印)は、現在も水うちわを製造販売しています。

タモリさんは、ブラタモリの文字が入った、オリジナルのデザインの団扇の加工に挑戦します。

岐阜の中心街:ブラタモリ岐阜

ブラタモリは、岐阜駅の北側にある円徳寺へ移動します。円徳寺には、織田信長による楽市楽座制札が残されていました(現在は、岐阜市歴史博物館が所蔵)。門前に楽市楽座(定められた商人以外も参加できる自由市場)が開かれていましたが、円徳寺は、かつては別の場所にありました。

古地図を頼りに、ブラタモリは、神社から織田塚へと続く古くからの道を歩きます。織田塚(印)は、織田家の美濃と戦いの過程の戦死者を弔ったもので、円徳寺はかつてこの辺りにありました。

織田塚の北東には、飛騨と尾張につながる、交通の要所である交差点があります。この場所で、楽市楽座が開かれていたのかも知れません。ここからも、織田信長が、経済中心の平和なまちづくりを目指したことがわかります。

金華山(岐阜城)周辺の口コミ評価が高いホテル

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