【ブラタモリ大阪城と真田丸・全ロケ地】豊臣・徳川の最後の戦いを探る#54

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ブラタモリ大阪城・真田丸編で、タモリさんが、大阪城(旧大坂城)・真田丸の地形や歴史を紹介しました。このページでは、ブラタモリ大阪城・真田丸編の内容、ロケ地、アクセスを分かりやすくご紹介します。

大阪でブラタモリ内容
梅田(#273)
大阪・堺(#134)海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった?
大阪ミナミ(#133)かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。
😎現地取材 大阪城・真田丸(#54)豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。
商都大阪(#53)かつての大阪は、台地を囲む広大な湿地帯。ブラタモリは、信長、秀吉と受け継がれた、商業都市・大阪の発展の秘密を探ります。

大阪城(旧大坂城)とは

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築城にあたり、大坂は日本一の場所と言い残し他界した織田信長。その遺志を引き継いで、豊臣秀吉は天下統一の拠点として、大坂城(現在の大阪城)を築きました。

大坂城は、周囲を湿地帯に囲まれた、上町台地に築かれました。周辺の地形については、ブラタモリ大阪編で詳しく取り上げられています。簡単にいうと、大阪駅の南東に大阪城があり、そこが上町台地の北端にあたります。

【ブラタモリ商都大阪】大阪はなぜ日本一の商業都市に?|全ロケ地#53

ブラタモリ大阪城のテーマは、難攻不落|ブラタモリ大阪城

ブラタモリのテーマは、大坂城はなぜ難攻不落です。

築城当時、大坂城は、日本でもっとも難攻不落とされました。大坂冬の陣で豊臣秀吉は、自軍の2倍以上、20万の徳川の軍勢に取り囲まれたものの、落城を免れました。これには大坂城の地形的な要因や、真田丸の大健闘が大きく関わっています。

地下に封印された豊臣大坂城の痕跡|ブラタモリ大阪城

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最終的に豊臣家は滅亡し、現在残っている、大阪城の石垣や堀は、徳川家が作ったものです(天守閣は再建)。しかし、1ヶ所だけ、豊臣秀吉の痕跡が残されています。

天守閣が見える場所に、大きな井戸のようなものがあります。鍵を開けると、はしごで下ることができます。深さは7m以上。ブラタモリの取材カメラマンが下へ降りると、古い石垣があります。

引用 豊臣石垣公開プロジェクト

豊臣大坂城の本丸は、苦い記憶を消すかのように、盛り土ですっぽり覆われていたのです。その上に、徳川の大阪城が建てられました。

100年も経つとそのことは忘れられ、江戸時代の後半には、豊臣秀吉の遺産と考えられていました。その後、識者が徳川によるものと突き止めたあとも、豊臣びいきが多い、大阪の人には伏せられていました。

大坂冬の陣の激戦地|ブラタモリ大阪城

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大阪城の北、現在の京橋駅の周辺には、大坂冬の陣の激戦地だった場所があります。徳川方は、大阪城の北東、京都方面から攻め入ってきました(緒戦の1つである「今福の戦い」)。

タモリさんは、京橋駅の西側の「らくだや」前から、道を歩きます(京阪の線路に沿う向き)。

道を進むと下へ降りる階段が!

階段を降りると、1段低い場所になっています。ここは、昭和47年に埋め立てられた川の跡となる道路だったのです!

ブラタモリでは、京橋駅の西にあるA地点(らくだや)から尾根状の高い道路を歩き、階段を降り、川を埋め立てた道路上のB地点に出ました。川沿いの尾根上の高台といえば、自然堤防(河川の上流から運搬されてきた砂などが、河道の岸に沿って堆積して形成された微高地)です。

大坂冬の陣のさいに、戦いに使える場所は、この自然堤防の上の部分だけでした。南に川、北に湿地帯です。

自然堤防の上で、徳川方約1500、豊臣方約3000の兵が激突しました(今福の戦い)。しかし、この地形では、互いの列の先頭がやり合うだけで、なかなか勝敗はつきません。周辺に戻る陣地を持たない、徳川方は引き下がらざるを得ず、大坂城を拠点とした豊臣方が防衛に成功した形となりました。

以上が大阪城の、北側の守りの様子です。

今福の戦い

大坂冬の陣の緒戦の1つ。

大坂城の北東、かつての大和川支流の北岸の今福村、南岸の鴫野村は低湿地や田んぼになっており、軍隊が展開できるのは堤防上のみ。徳川家康は今福村に付け城(前線基地)を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じ、今福へは佐竹義宣指揮下の兵1500を送った。

堤防上で膠着状態のなか、豊臣方の援軍もあり、佐竹義宣は大和川対岸にいた上杉勢に救援を求めた。上杉景勝、堀尾忠晴、榊原康勝の軍勢が大和川の中州まで出て銃撃を加え、豊臣軍は撤退。

大坂城の南側の守りとは|ブラタモリ真田丸

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ブラタモリ大阪編で取り上げられたように、大坂城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていました。南側はどうだったのでしょうか?

大坂城の南側、上町台地上の城下町には、大阪城へと向かう道が整備されていました。

大阪城の南側、地下鉄谷町六丁目駅の南東に位置する上町中学校のすぐそば(南西側)にある道路です。台地上の平坦な場所にも関わらず、下り坂があります。なぜでしょうか?

ここは、深さ10m、幅30~40mの空堀(水を流さない堀)の痕跡なのです。空堀に隣接し、土塁も設けられていました。これが大阪城の南側の守りです。自然の地形を使った東、北、西の守りに、南側の空洞を加え、全方向を守る、総構えです。この付近には、藤堂高虎らが布陣したと思われます。

空堀の跡はほとんどありませんが、ブラタモリは、住宅地に残る痕跡を紹介しました。

場所は、田島北ふれあい広場付近です。

さて、南にはこのように、巨大な空堀があったものの、南東に弱点がありました。

真田丸の姿が明らかに!|ブラタモリ真田丸

真田丸の跡地(左が大阪明星学園、右が心眼寺)
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大坂城を守る空堀に弱みがある、南東側の弱点を埋めたのが、出城である真田丸です。

出城とは、本城の防衛や攻撃を補佐する、小規模の陣地のこと。1614年の大坂冬の陣では、真田信繁(幸村)の軍勢が控えた、真田丸の顕著なはたらきで、徳川の大群を撃退しています。

真田丸は、徳川勝利後、忌み嫌うように、完全に破壊されてしまいました。そのため史料がなく、絵図にあらわれる真田丸は、大まかに描かれていることが大半です。

真田丸の範囲(上に出っ張っているのは真田丸の出丸)

しかし今年(ブラタモリ放映時)見つかった、松江歴史館所蔵の絵図は、非常に明確に真田丸が描かれており、画期的なものです。真田丸は、大坂城に接続した出城と考えられていた時期もありますが、現在は、独立したそれなりの規模の城(東西約180m、土塁の高さ約9m、堀の深さ約6~8m)と考えられています。

引用 「大坂 真田丸」絵図に描かれた新たな情報について

ブラタモリは、新たな絵図をもとに、出丸跡と思われる場所を探し当てます。玉造駅近くの、大阪明星学園グラウンドの北側の道路上にあたります。

大阪明星学園向かいの心眼寺しんがんじは、真田丸の一角にあり、真田信繁(幸村)らの冥福を祈るため、建てられました。

もともとこの場所にお寺はあったのですが、真田丸の一部として造成され、大坂冬の陣の終結後に取り壊され、しばらく後に再建されました。

真田幸村出丸城跡の石碑。

各地にある真田信繁(幸村)の墓の1つです。

  •  真田丸の出丸があった場所?
  •  真田丸の空堀?(心眼寺と大阪明星学園の間の道)
  • ● 真田丸の東端付近?(心眼寺敷地内。段差になっている)
  • (追記)放送後に民間団体が土塁の痕跡と思われる地層を発掘した場所

心眼寺から大阪明星学園のグランドを望みます。このグラウンドに真田丸本郭の中心があったされますが(大阪市天王寺区の見解)。ブラタモリではグラウンドの北側(写真では右側)の道路上を、真田丸の出丸だった場所として紹介しています。

大坂冬の陣での徳川家康本陣(茶臼山)は、左方向(南南西)です。

大阪でブラタモリ内容
梅田(#273)
大阪・堺(#134)海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった?
大阪ミナミ(#133)かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。
😎現地取材 大阪城・真田丸(#54)豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。
商都大阪(#53)かつての大阪は、台地を囲む広大な湿地帯。ブラタモリは、信長、秀吉と受け継がれた、商業都市・大阪の発展の秘密を探ります。

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