ブラタモリ大阪編で、タモリさんが、大阪はなぜ日本一の商業都市に?をテーマに大阪の地形や歴史を紹介しました。このページでは、ブラタモリ大阪編の、内容、ロケ地、アクセスを分かりやすくご紹介します。
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大阪でブラタモリ | 内容 |
梅田(#273) | |
大阪・堺(#134) | 海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった? |
大阪ミナミ(#133) | かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。 |
😎現地取材 大阪城・真田丸(#54) | 豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。 |
商都大阪(#53) | かつての大阪は、台地を囲む広大な湿地帯。ブラタモリは、信長、秀吉と受け継がれた、商業都市・大阪の発展の秘密を探ります。 |
あべのハルカスから、大阪の概観をつかむ|ブラタモリ大阪
ブラタモリは、大阪駅の南方、通天閣も見える天王寺駅前を経て、大阪の新しい象徴である、あべのハルカスに移動しました。
現在、大阪が迎える観光客は年に1億人余り。大阪はなぜ日本一の商都に?をテーマに、タモリさんが大阪の地理や歴史を探ります。
江戸時代の大阪、武士はわずか2%前後。大阪は、商人がもっとも目立つ町でした。古地図(増脩改正摂州大阪地図 1806年)を見ても、武家地はごくわずかです。
高所恐怖症のタモリさんは、エレベーターからの景色はスルーし、あべのハルカス60階展望台展望台へ。北側の地形を見下ろします。
写真目印の大阪城の西側に、大阪の中心地キタ(梅田、大阪駅)、ミナミ(難波、道頓堀)があります。
梅田は、「埋め田」の名前の通り埋立地。
あべのハルカスの場所は、かつて、海に突き出た半島のつけ根にありました。大坂城の北側を始め、現在の上町台地の周辺は海だったのです。
周囲の海が湿地帯に変化した頃、上町台地を見た織田信長は、「大坂は凡そ日本一の境地なり」と言ったと伝わります。信長が、湿地帯が広がる大阪を、日本一の場所と評したのは、なぜだったのでしょう?
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大阪を知るキーワードは、上町台地|ブラタモリ大阪
大阪城が見える天満橋駅付近にある、北大江公園の北東側を歩くと、急な階段があります。
タモリさんが声を上げたほどの、大阪のイメージに反する急な段差。これは上町台地の北端です。さらに、北大江公園の西側に回り、石町通りの斜面(目印 そば処あづま)を観察すると、この場所が上町台地の北西の端にあたることが、よくイメージできます。
上町台地は3方向に崖があったため、織田信長は、防衛が容易な、天然の要害として高く評価したのです。名古屋城(ブラタモリ名古屋)や、江戸城(ブラタモリ江戸城)も台地のヘリに建てられています。
さらに、瀬戸内海に面し、大陸からの海運の要所でもあった点も、大きなポイントでした。北大江公園の北西側にある、大川の船着き場には、瀬戸内海のほか、京都や奈良にも航路が通じていました。信長は、大阪が日本の商業の中心になると予想したのです。
大阪を手に入れた2年後、本能寺の変で織田信長は倒れます。信長の死後、遺志を継いだ豊臣秀吉が、大阪城の築城を手がけました。
秀吉が見た上町台地のふもとには、広大な湿地帯が広がっていました。どのように大阪は、江戸時代に天下の台所と呼ばれるまでの発展を遂げたのでしょうか?
上町台地に、大阪城を築城|ブラタモリ大阪
城下町の整備は、整備が困難な湿地帯を避け、まずは大阪城の南に伸びる台地の上から始められました。
江戸時代の町づくりは、土地の高さが身分の差に関連があったと、ブラタモリ三田・麻布の回で説明されています。
ブラタモリは、上町台地の北端にあたる北大江公園から、台地の上を歩き、南へ下ります。ローソンストア100内平野店付近で、町の表示を確認します。
すると、隣り合った建物にも関わらず、南側が内淡路町2丁目、北側が内平野町2丁目となっています!
現在(2023年に確認)は、左側の建物が建て替えられたため、内平野二丁目の表示のみとなっています。
少し歩くと、同じ一角に、内淡路町2丁目の表示が見つかりました。
タモリさんが見つけた町の境界
- 船越町 〜 内平野町
- 内平野町 〜 内淡路町(上の写真)
- 内淡路町 〜 大手通
ビルとビルのあいだの、中途半端な場所に、町の境界線があるのは、なぜでしょうか?
古地図を見ると、例えば赤で示した通りの両側が、同じ町になっています。
通常は、通りによって町を分けますが、大阪では「両側町」と呼ばれる、お向かいさん同士が同じ町になる町割りとしました。これは、お向かいさんが、別の町になるよりも、コミュニティがうまく働くと考えられたことによるようです。
ブラタモリは、中央区農人橋2丁目3(地図)で、町の境目の路地(町境)を見学します。町境には、排水溝が通され、衛生面に配慮した町づくりが行われていました。
この町境をしばらく歩くと、南大江小学校付近に突き当たります。片隅に、太閤下水(背割下水)の表示。秀吉が作ったインフラ、太閤下水の痕跡であり、地上に設置したのぞき窓から誰でも見ることができます。(タモリさんは、非公開の地下を見学)
この下水道は、建物が背中合わせに並んだ、町境すべてに通されました。
古地図をよく観察すると、太閤下水(背割下水)には、不自然に直角に曲がる場所が複数あります。なぜでしょうか?
ブラタモリは、下水道が曲がっている場所の1つに移動します。案内人により、谷底にあった川の流れをうまく利用して、下水を建設していたことが分かります。
- 目印 いろは湯(大阪市中央区谷町5丁目3。地下鉄谷町六丁目駅から徒歩2分)
さらに、タモリさんのリクエストで「谷頭」を目指します。いろは湯を北東へ進み、銅座公園の裏手の住宅地付近が、川の水源である谷頭の痕跡ではないかと推理します(地図)。土地の人によると、昔は金魚の池があったとのことです。
湿地帯を城下町として開発|ブラタモリ大阪
上町台地の城下町が完成したあと、湿地帯を埋め立て、城下町は広げられてゆきました。
ブラタモリは、大阪の商業の中心の1つ、船場を訪ねます。古い絵図には、行商人や両替商、魚屋、うどん屋の様子が描かれます。現在の船場も、両側町が広がっています。
秀吉の開発した町らしく、直線的な道路が目立ちますが、タモリさんは、肥後橋駅近くのトヨタレンタリース付近で、直線的な道の終わりに気づきます。
「直線を見たら秀吉と思え」→ブラタモリ京都伏見
肥後橋駅近くのトヨタレンタリース付近には、橋の跡があります。この付近にはかつて、南北の方向に「西横堀」が流れており、堀を境に、町割が変わっていたのです。
「西横堀」の西側で、東西に巡らされた堀の跡(株式会社サカキコーポレーション付近に橋の痕跡、地図)を観察すると、西横堀の東側に比べ、不規則なカーブが多いことが分かります。これは、なぜなのでしょうか?
「西横堀」の西側は、江戸時代に町人が開発した町だったのです。
東側は公の手によって整然と開発されましたが、「西横堀」の西側はコツコツと手作りの開発が進み、多くの小さな、直線的でない堀が東西に流れていました。この堀には、特産品を積んだ船が入ってきました。
タモリさんが堀の痕跡を巡ったエリアのすぐ北には、中之島と呼ばれる大きな中州があります。ここには、広島藩など約130の蔵屋敷があり、日本中の物資が集まってきたのです。
ここに日本の台所、日本一の商都が誕生しました。ブラタモリは、中之島の東の端にある、中之島公園で締めくくりました。
大阪でブラタモリ | 内容 |
梅田(#273) | |
大阪・堺(#134) | 海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった? |
大阪ミナミ(#133) | かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。 |
😎現地取材 大阪城・真田丸(#54) | 豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。 |
商都大阪(#53) | かつての大阪は、台地を囲む広大な湿地帯。ブラタモリは、信長、秀吉と受け継がれた、商業都市・大阪の発展の秘密を探ります。 |
😎見逃した方はこちらから
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😎過去回ロケ地 完全収録
ブラタモリが、長岡→燕・三条→新潟市を、信濃川なしには語れない地域としてまとめてくれそう!😎
— ブラタモリ (@buratamori2018) August 27, 2023
漏れる糸魚川、上越、村上などは北前船航路でカバー🚣♂️
信濃川、北前船で理解しやすく全県を売り出せば、まだまだ観光客は来そう!
動画は十日町市に信濃川が作った河岸段丘で、このエリアもカバー。 pic.twitter.com/pFJF4tlKW3
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