【ブラタモリ大阪】全ルートを写真で紹介!~地形・穴場観光地~ #53





NHK番組のブラタモリ大阪編で、タモリさん推奨の大阪の歴史・地形を踏まえた観光ルートが紹介されました。この記事では、ブラタモリ大阪編のルートを、アクセスなどの情報とともに紹介します。

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大阪でブラタモリ内容
大阪・堺(#134)海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった?
大阪ミナミ(#133)かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。
大阪城(#54)豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。
大阪(#53)湿地帯のなかにわずかな台地が広がっていた大阪。ブラタモリは、発展の秘密を探ります。

あべのハルカスから、大阪の概観をつかむ:ブラタモリ大阪

あべのハルカス

写真は、大阪の新しい象徴である、あべのハルカス。現在、大阪が迎える観光客は、年に1億人余りです。テーマは、大阪はなぜ日本一の商都に?

江戸時代の大阪に、武士は約2%、商人がもっとも目立つ町でした。古地図を見ても、武家地はごくわずかです。ブラタモリは、天王寺駅前を経て、あべのハルカスからスタートしました。

大阪城

あべのハルカス60階展望台展望台から、大阪の地形を見下ろします。大阪城の西に、大阪の中心地キタ(梅田、大阪駅)、ミナミ(難波、道頓堀)があります。大阪城より先は、もともと海の中でした。あべのハルカスは、半島のつけ根にあるようなイメージです。現在の、上町(うえまち)台地の周辺は海だったのです。

上町台地

大阪を知るキーワードは、上町台地:ブラタモリ大阪

天満橋駅付近にある、北大江公園の北東側を歩くと、急な階段があります。これは上町台地の北端です。さらに、北大江公園の西側に回り、斜面を観察すると、この場所が上町台地の北西の端にあたることが、よくイメージできます。

上町台地を見た織田信長は、大阪を、日本一の場所と評しました。なぜだったのでしょう?

上町台地は、3方向に崖があったため、織田信長は、防衛が容易な、天然の要害として高く評価したのです。さらに、瀬戸内海に面し、大陸からの海運の要所でもあった点も、大きなポイントでした。北大江公園の北西側にある、大川の船着き場には、瀬戸内海のほか、京都や奈良にも航路が通じていました。

織田信長の死後、跡を継いだ豊臣秀吉が、大阪城の築城を手がけました。当時、上町台地のふもとには、広大な湿地帯が広がっていました。なぜ大阪は、江戸時代に天下の台所と呼ばれるまでの発展を遂げたのでしょうか?

上町台地に、大阪城を築城:ブラタモリ大阪

城下町の整備は、整備が困難な湿地帯を避け、台地の上から始められました。

江戸時代の町づくりは、土地の高さが身分の差に関連があったと、ブラタモリ三田・麻布の回で説明されました。

天満橋駅付近の、北大江公園から、南へ下ってきます。東の方角には、大阪城があります。ローソンストア100内平野店付近で、町の表示を確認します。

すると、南側が内淡路町2丁目、北側が内平野町2丁目となっています。ビルとビルのあいだの、中途半端な場所に、町の境界線があります。なぜでしょうか?

大阪 古地図

地図出典不明

古地図を見ると、東西に走る通りの両側が、同じ町になるように区切られています。通常は、通りによって町を分けますが、大阪では、両側町という、お向かいさん同士が同じ町になる町割りとしました。

町割り 大阪

おおよそ概念図のような町割りがされていたのです。これは、お向かいさんが、別の町になるよりも、コミュニティがうまくはたらくと考えられたことによるようです。

※古地図の赤の直線は、正確な町の境界ではありません。

背中合わせの町境の全てに、下水道が通され、衛生面に配慮した町づくりが行われていました。ローソンストア100内平野店を南に下った場所にある、南大江小学校付近に秀吉が作ったインフラ、太閤下水の痕跡が残っています。

古地図をよく観察すると、太閤下水には、不自然なカーブがあります。なぜでしょうか?

下水跡が曲がっているルートの途上にある、丁字路に移動します。案内人により、川の流れをうまく利用して、下水を建設していたことが分かります。

  • 目印:いろは湯(大阪市中央区谷町5丁目3。地下鉄谷町六丁目駅から徒歩2分)。

さらに、いろは湯を北東へ進み、銅座公園の裏手の住宅地付近が、川の水源である谷頭(こくとう)ではないかと、推理します。土地の人によると、昔は金魚の池があったとのことです。

湿地帯を城下町として開発:ブラタモリ大阪

上町台地の城下町が完成したあと、湿地帯を埋め立てて城下町を広げてゆきました。

肥後橋駅近くのトヨタレンタリース付近には、橋の跡があります。この付近にはかつて、西横堀と呼ばれる堀が流れていたのです。

下の古地図の◯印付近が目安。訪問する際の目印は、トヨタレンタリース淀屋橋店(地下鉄肥後橋駅から4分)。

ブラタモリ 大阪

一方、別の場所には、先に見た橋と直角の方向にかけられた、橋の跡があります。

  • 上の古地図の◯印付近が目安。訪問する際の目印は、炭火焼鳥佳香 おかにわ(地下鉄肥後橋駅下車すぐ)。

上の2つのことから、湿地帯に整備された城下町には、南北、東西、両方向に堀が流れていたことが分かります。

ブラタモリ 大阪

さらに、丸印付近を流れる西横堀の西側の、縱橫に巡らされた堀の跡を観察すると、西横堀の東側に比べ、不規則なカーブが多いことが分かります。なぜなのでしょうか?

西横堀の西側は、江戸時代に町人が開発した町だったのです。東側は公の手によって整然と開発されましたが、西側はコツコツと手作りの開発が進み、多くの小さな、直線的でない堀が東西に流れていたのです。この堀には、特産品を積んだ船が入ってきました。

中之島

大阪の町を東西に流れる中洲である、中之島には、広島藩など130の蔵屋敷がありました。日本中の材が集まってきたのです。ブラタモリは、中之島の東の端にある、中之島公園で締めくくりました(地下鉄なにわ橋駅下車)。

大阪でブラタモリ内容
大阪・堺(#134)海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった?
大阪ミナミ(#133)かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。
大阪城(#54)豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。
大阪(#53)湿地帯のなかにわずかな台地が広がっていた大阪。ブラタモリは、発展の秘密を探ります。

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