
『どうする家康』ゆかりの旅行地とモデルコースを、徳川家康の年代順に掲載しています。
- 徳川家康の名前は、年齢により変遷していますが、家康と表記することがあります。年齢は数え年で表記しました。
- ドラマ『どうする家康』のネタバレにならないように、記述を工夫しています。
- 一部、編集中の項目がありますが、取材や調査のたびに改良中です。
愛知県 岡崎城|家康 生誕~6/19~27歳


岡崎城は、徳川家康の生誕の地(1542年)。桶狭間の合戦で、今川義元が戦死したことをきっかけに、家康は岡崎城に入城し、戦国大名として自立しました(1560年、19歳)。
3時間コース 岡崎公園前駅(徒歩7分)カクキュー八丁味噌【家康の好物、味噌煮込みうどんのランチ、八丁蔵通りなどで1時間滞在】(徒歩13分)岡崎城【1時間半滞在】(徒歩10分)岡崎公園前駅
※岡崎城から徒歩16分の松應寺【家康の父を供養、昭和風の松應寺横丁】、さらに徒歩15分の伊賀八幡宮【徳川家守護神】に足を延ばすこともできます。伊賀八幡宮から徒歩11分で東岡崎駅に出られます。

カクキュー八丁味噌(八丁味噌の郷)は、家康の好物だった八丁味噌の工場などがあります。味噌煮込みうどんのランチが提供され、周辺の八丁蔵通りも人気があります。

岡崎城では、大手門がひとつ目の見どころ。

大手門入ってすぐのからくり時計塔は必見。家康が30分ごとに舞を披露しますが、かなり本格的です。この付近にドラマ館(期間限定)があります。
天守閣へは右方向から入ると、徳川家康しかみ像、家康産湯の井戸を通り、出世ベンチ(家康、竹千代像)で左方向からのルートと合流。天守閣はすぐそこです。
岡崎城の周辺では、徒歩なら松應寺(家康の父を供養)と伊賀八幡宮(松平家の氏神、徳川家の守護神)。クルマなら大樹寺(若い家康が1度は切腹を決意した場所)を含め、3つとも回れます。
移動時間がかかりますので、3時間ほどの観光なら、岡崎城やカクキュー味噌に絞ると良いでしょう。周辺の3つの寺社も回る場合、5時間程度は必要です。
※岡崎城から徒歩5分にタイムズカーシェアがあり、会員になればレンタカーがわりに使用できます。松應寺は市街地ですが、テラカドコーヒーで買い物をすれば同店の4台の駐車場が使用できます(商店街のような外観の松應寺の前にいったん車を停め、駐車場マップを見ます)。伊賀八幡宮は、バスの駐車場しかないように見えますが、わきに一般駐車場も2台あるようです。大樹寺は有料ですが、駐車場あり。
岡崎城から徒歩圏内の松應寺、伊賀八幡宮

岡崎城から徒歩15分に位置する松應寺。境内にお店が立ち並ぶ不思議なお寺です。

境内にあるお店の1つ、テラカドコーヒー。

クレープは、少し高いですが、和菓子風で絶品。「イエヤスノツルギ」もあります。

伊賀八幡宮は、松應寺から徒歩15分。松平家の氏神から、徳川家の守護神へ発展。参道が長く、奥行きがあります。
アクセス 岡崎城(徒歩21分)松應寺(徒歩15分)伊賀八幡宮
アクセス(バス利用) 岡崎城(徒歩3分)明大寺前[北側]🚌(名鉄バス奥殿陣屋行きで5分、、原則1時間に1本)能見町(徒歩2分)松應寺(徒歩2分)能見町🚌(名鉄バス岡崎駅前行きで3分、原則1時間に1本)伊賀町(徒歩4分)伊賀八幡宮
岡崎城からバスで向かう大樹寺

桶狭間の戦いで主君を失った家康(19歳)は、大樹寺に逃げ込みます。
家康は、信長にも追われ、先祖の墓の前で切腹を決意します。このとき、住職が「厭離穢土 欣求浄土」の仏教の言葉を引き、この世が汚れ切っているからこそ平和な世を目指すよう説得します。
大樹寺がなかったら、家康の命は、ここで尽きていたかも知れません。
アクセス 岡崎城(徒歩3分)明大寺町[北側]🚌(名鉄バス奥殿陣屋行き12分)大樹寺バス停(徒歩6分)大樹寺
上之郷城(愛知県蒲郡市)
19歳で岡崎城に戻った家康でしたが、妻子は今川氏真に、人質として取られます。武力に乏しい家康は、忍者の力を借り、上之郷城を攻め人質交換のための人質(鵜殿長照の2人の子)を奪います。現在城跡はみかん畑で、土塁や空堀、城跡碑のみ残されています。
アクセス 蒲郡駅からバスで水竹町西へ。徒歩15分。
世良田東照宮(群馬県)

24歳で徳川に改称した家康。世良田東照宮は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士である、新田義季と関わりが深い神社です。家康は、新田義季を先祖とすることで、源氏の末裔として、徳川を名乗りました。
静岡県 駿府城|家康8~19/45~49/66~75歳


静岡駅から徒歩圏にある駿府城公園は、徳川家康が人生で3度も住んだ駿府城の跡地です。
北口の駅前には、今川義元に見守られる、幼少期の家康(竹千代)像があります。像の後方にある、一方通行の細い道(呉服町通り)から、駿府城公園を目指すのがおすすめ。
3時間コース 静岡駅北口【今川義元・竹千代像、そばに家康像】(徒歩4分)ローソン静岡呉服町店【右折】(徒歩5分)静岡市歴史博物館【見学30分】(徒歩7分)駿府城天守台跡【見学30分】(徒歩10分)おでんおがわ【滞在30分】(徒歩5分)静岡浅間神社【境内にドラマ館=期間限定、見学30分】(徒歩すぐ)赤鳥居浅間神社入口バス停🚌(バス13分)静岡駅前

右折する地点(ローソン 静岡呉服町店、地図)からは、ふしみやの看板が見えます。徳川家康は、関ヶ原合戦の前後、短期間ですが伏見城(京都市)を居城とした時期があり、伏見から移住させた人がいた名残です。
このように、静岡駅北側の繁華街には、駿府城下の面影が、至る所に残されています。
【ブラタモリ静岡市】タモリさんが「どうする家康」の舞台、駿府を探る|ロケ地一覧#224

駿府城公園・東御門が見えます。その手前、新たに誕生した静岡市歴史博物館はぜひ訪ねたい場所です。

1階は、無料で見学可能。駿府城の城内または城下町にあったと見られる「道」が、発掘されたそのままの形で展示されています。

天守閣のない駿府城跡では、東御門の写真が紹介されることが多いです。

東御門を入り、徳川家康公の像・手植えのミカンを探し、そのすぐそばの天守台発掘現場に向かい、西門から出て、坤櫓を見るのがおすすめです。現在地表示の辺りに、おでん屋さん(おばちゃん)があります。

駿府城公園内にあるおでんのおがわ。店内(1テーブルのみ)や周辺で食べることができます。
味を追求するなら、静岡浅間神社に向かう途中のおがわへ。ただし、店内飲食は混雑気味で、周辺は商店街のため、食べ歩きはしづらいです。
【駿府城内にも】静岡駅周辺のおでん 一人や昼飲みが可能なおすすめ店

駿府城跡は、天守閣も天守台も残されていませんが、貴重な天守台の発掘現場を見学できます。奥は、徳川家康が40代に作ったお城の石垣(野面積み)。手前は、晩年に大きく作り直したもの(打込み接はぎ)です。

家康が人質だった時代(竹千代~松平元信~松平元康)に滞在した、今川館は、駿府城と同じような位置にありました。本館の場所や配置は分かっていませんが、発掘現場から今川館の痕跡も出土しています。あの今川義元も、この辺りを歩いていた可能性はあります。

発掘現場から静岡浅間神社へ。途中、静岡おでんの最高峰とも言えるおがわを通ります。汁が少なく、テイクアウトにも向いています。

おがわの近くには、どらやきの人気店も。ホットケーキに近い、子どもも喜びそうな味です。

発掘現場から、約10分ほどで静岡浅間神社へ。

間口から想像する以上の規模がある神社です。ドラマ館だけの見学なら30分程度ですが、神社も回るとさらに30分は必要です。

敷地面積約1万3000坪の大きな神社で、境内にドラマ館が設けられています(期間限定)。

ドラマ館の今川義元の衣装。
【ブラタモリ静岡市】タモリさんが「どうする家康」の舞台、駿府を探る|ロケ地一覧#224
―名古屋市 桶狭間(古戦場)


桶狭間の戦いは、織田信長が今川義元を破った戦いです(1560年、家康19歳)。家康(松平元康)は、今川方の先陣として大高城を援護します。
しかし、義元が討たれてしまい、家康は、岡崎城に戻ることになりました。
アクセス 名鉄名古屋から有松駅まで約17分。バス7分、桶狭間古戦場公園下車。(バスは1時間に1本。歩くと約20分)
静岡県 浜松城|家康29~45歳


浜松駅からバスで5分足らず(徒歩でも20分)の場所に、浜松城があります。規模は小さめですが、天守閣も再建されています。
徳川家康は、1570年、岡崎城を長男の信康に譲り、遠江国(静岡県西部、遠州)を管理し、武田信玄の南下に備えました。家康は、29歳~45歳までの17年間を、浜松城で過ごしました。
天守閣はもとは五重天守だったと推定され、やや小ぶりに再建されています。また、家康の時代に天守や石垣はなく、土塁と、かやぶきの建物の構成だったと推定されます(浜松市資料)。
3時間コース 浜松駅🚌(バス5分)市役所南(徒歩すぐ)家康公鎧掛松(すぐ)家康公お手植えみかん(すぐ)浜松城【天守門、天守閣、ドラマ館=期間限定、見学1時間】(徒歩5分)元城町東照宮【家康がまず入城した、引間城(曳馬城)があった場所、見学15分】(徒歩14分)浜松八幡宮【対武田の戦いで家康が隠れた巨木、見学15分】(徒歩6分)八幡駅🚋(遠州鉄道4分)新浜松【八幡から浜松駅前に点在する餃子店へ。予約制のむつ菊から、浜松駅前の石松餃子まで、こだわりに応じて、1時間】

浜松城は、東側を流れる天竜川が作った、河岸段丘の東の隅に建てられました。東側を強く意識した立地は、もちろん武田信玄に備えてのものです。
天守閣からは、東に低地を見渡すことができます。「どうする家康(第17回三方ヶ原合戦)」では、武田信玄の大軍が、まさにこの周辺に展開しましたが、素通りし、家康は悔しい思いをします。
天守閣がある河岸段丘は、北方は三方ヶ原台地と呼ばれます。家臣が天守閣から三方原の戦いで家康の劣勢を見て、窮地を救ったという言い伝えがあります(『大三川志』による)。
【ブラタモリ浜松編】駅のピアノ・東照宮家康像など、全ルートを写真で紹介!#153

元城の東照宮は、その名の通り元の引間城です。家康は、信長の命でひとまず引間城に入ると、西側に浜松城を大きく拡大します。引間城の本丸跡は、現在は元城の東照宮となり、家康をまつっています。

元城の東照宮にある、入城当時、青年期の徳川家康像。手前は少年期の豊臣秀吉像です。本来は秀吉の方が6歳年上ですが、この場所で出世をつかんだ年代に合わせてあります。

家康はまずは引馬城に入り、武田に備えるなどの目的で、城を南西に拡大し、浜松城と改めました。

浜松八幡宮から浜松駅にかけての住宅地や繁華街には、浜松餃子の人気店が点在。時間がない場合は、線路下にある石松餃子が、時間が読めて便利です。
―静岡県 三方ヶ原(古戦場)


三方ヶ原の戦いは、家康・信長連合と、強敵・武田信玄との合戦です(1573年、家康31歳)。

三方ヶ原古戦場跡は、浜松駅からバスで約37分、三方原墓園バス停を降りてすぐです。基本的には、石碑しかない場所ですが、歴史好きならおすすめです。
祝田坂上説(高柳光壽『戦国戦記1 三方原之戦』)によれば、三方ヶ原の戦いの場所はまさにここ。この説は有力ですが、諸説あります。

軍勢の数が劣る場合、籠城戦が定石です。家康が野戦を選んだ背景として、「どうする家康」では、まだ若い家康が無視をされて怒った、領民の目が気になるという説が採用されていました。
このほか、偵察隊との小競り合いから済し崩しにという説もあります。相互に矛盾するものではなく、複数の背景があったのかも知れません。
組み合わせるなら、二俣城跡へ。要所である二俣城を守るため、家康は本多忠勝(演・山田裕貴)を出陣させますが、命からがら逃げかえってきた描写が、「どうする家康」にはありました。その後、武田軍が占拠した場所です。

三方ヶ原墓苑バス停からから金指駅まではバスで。金指駅から二俣本町駅は、遠州浜名湖鉄道で移動しますが、ローカル線のムード満点です。

金指駅では待ち時間が長い場合がありますので、駅近くのレストラン「ぴいぷる」を知っておくと便利です。バスの場合は、金指駅の1つ手前で降りると便利です。
値段は少し高いですが、内装が良く、旅の休憩におすすめ。みそまんソフトクリーム(写真)や、直虎ちゃんソフト(写真)もあります。
二俣城は、このページの少し下にまとめてあります。

また、方広寺(家康が遠州進出時に、最初に立ち寄った場所)もおすすめです。
- 浜松城跡 …一般向き
- 元城町東照宮 …一般向き
- 三方ヶ原古戦場跡 …ややマニア向き(時間のない場合、バス車窓-北へ向かう場合左手-)でも構いません。
- 二俣城跡 …ややマニア向きですが、「どうする家康」ではカギとなる場所で、おすすめです。
- 方広寺 …一般向きですが、「どうする家康」には登場していません。
―静岡県 二俣城跡


1572年~1575年には、二俣城をめぐり、徳川家康と武田氏の攻防戦が繰り広げられました。武田氏が占拠し、浜松城、三方ヶ原へと軍を進めます。
アクセス 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から徒歩10分(階段、上り坂あり)。鳥羽山城跡へ徒歩13分(下り坂が多い)。/なお新浜松駅から遠州鉄道利用の場合、西鹿島駅からバス便あり。

浜松駅から向かう場合は、天竜浜名湖鉄道線(写真)を利用し、浜松城、三方ヶ原古戦場跡碑を経由したルートが組めます。
5時間コース 浜松駅🚌(バス5分)市役所南(徒歩すぐ)家康公鎧掛松(すぐ)家康公お手植えみかん(すぐ)浜松城【天守門、天守閣、ドラマ館=期間限定、見学1時間】(徒歩5分)元城町東照宮【家康がまず入城した、引間城(曳馬城)があった場所、見学15分】(徒歩8分)元城町🚌(バス1時間、途中、三方原墓苑バス停そばに「三方ヶ原古戦場跡碑」があります。左手車窓から見えますが、興味があれば下車してください)金指駅🚋(天竜浜名湖線25分)二俣本町(徒歩10分、急な上り階段あり)二俣城址【見学30分】(徒歩15分)鳥羽山城址【見学15分】(徒歩10分)鳥羽山公園入口🚌(バス15分)西鹿島駅🚋(遠州鉄道33分)新浜松駅
※電車・バスの待ち時間を除くと5時間。実際には6時間程度かかります。

天竜浜名湖鉄道で、金指駅から二俣本町駅に向かう途中、天竜川を渡ります。
武田軍のなかでも名をとどろかせた、山県昌景隊はこの辺りを渡って、進軍してきたはずです。武田は、この天竜川からの水の供給を絶ち、わずか1200余の軍勢でよく粘った二俣城を落としました。

二俣本町駅です。

城らしい立地を感じさせる、階段を登ります。

二俣城跡には天守台が残され、登ることもできます。

武田信玄は、二俣城→浜松城(素通り)→三方ヶ原の順に進軍します。二俣城は、徳川方の支城のなかでも要となっていた場所。家康はここを守るため、徳川四天王のひとりであり最強クラスの本多忠勝(演・山田裕貴)を出陣させますが、命からがら逃げかえってきた描写が、「どうする家康」にはありました。
武田信玄は、天竜川からの水の供給を絶ち、わずか1200余の軍勢でよく粘った二俣城を落としました。

二俣城の立地は、地形図を見て頂くと、北から流れてきた暴れ天竜の流れが、平野(扇状地)に打ち出でる場所です。そのため川沿いの交通と、東西の道が交わる重要な場所。まさに扇の要です。
(参考)38歳になった家康は、信長から、築山殿(瀬名)と息子の信康が、武田家と内通しているとの指摘を受けます(1579年)。二俣城は、「どうする家康」の今後の展開でもカギを握ります。

二俣城址から、鳥羽城址へ徒歩10分ほどで移動できます。途中、天竜川の堤防が印象的。堤防と山々に囲まれた集落は、まるで村上春樹が描く、どこにも出口がない、世界の終わりの町のようです。

二俣城を巡る戦いの際、鳥羽山城には徳川方の本陣が置かれました。

天守台は残っていませんが、土塁や、枯山水庭園の跡が残されています。

鳥羽城址から見た、天竜川です。
西念寺(東京都)

西念寺は服部半蔵が建て、信康のための供養塔が建てられています。
―静岡県 長篠(古戦場)


長篠の戦いでは、家康・信長連合が、強敵・武田家と戦いました(1575年、家康34歳)。撃ち手を交代しながら連続的に攻撃ができるように、3000丁の火縄銃が準備されたことは、よく知られています。
成功の背景には、鉄砲玉の数が重要。織田信長が支配した境を経由して、鉛が輸入されましたが、家康も領地で鉛の採掘を進めて、戦いに貢献しました。
現地には、馬防柵が再現されています。
アクセス JR飯田線 三河東郷駅から徒歩で15分
―三重県伊賀市 伊賀越え


本能寺の変のあと徳川家康は、1度は自害を表明します。しかし結局、伊賀忍者の助けを借りて、大阪の堺から三河国へ向かう、伊賀越えを試みます(1582年、家康41歳)。
家康は、観光のため、わずかな兵力で堺を訪ねていました。伊賀越えは、落武者狩りなどの危険を伴いますが、服部半蔵が配下にいたことが、奏功したという説があります。
なお、家康は、本能寺の変を事前に察知したという説もあります(諸説あります)。
JR新堂駅から南へ徒歩約35分(または高速バス御代インター森精機前から徒歩約13分)の川東地区には、多数の土塁が残されます。これは、忍者の日常の姿だった、農家(領主、小豪族)の城館の痕跡です。
【ブラタモリ伊賀忍者、甲賀・信楽編】ロケ地|タモリさんが伊賀忍者の秘密を探る#158 159
―愛知県 小牧・長久手(古戦場)


小牧・長久手の戦いは、信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉と、徳川家康らの間で行われた戦いです(1584年、家康31歳)。秀吉が優勢の時勢のなか、唯一家康と秀吉とが直接対決した戦です。
尾張北部の小牧山城、犬山城、楽田城を中心に、広範囲で合戦が行なわれました。

犬山城の天守は、現存する日本最古の様式。城下町も再現されています。
犬山城のアクセス 犬山駅から徒歩約18分
東京都 江戸城|家康49~66歳


東京駅から徒歩で向かう皇居は、言わずと知れた、江戸城の跡です。天守閣は火災で焼失し、現存していませんが、天守閣を再建予定だった「天守台」が残されています。
49歳の家康は、秀吉から、湿地が広がる江戸を治めるように命じられます。江戸は、利根川の氾濫などの影響で、どこも水浸し。掘れば飲み水にならな塩水が出る、大変な土地でした。
東京都 水道歴史館
家康は、井の頭池から流れる水を使って、上水道を作りますが、神田川を越えるという難所がありました。家康は、木製の「水道橋」を作って、この問題を解決しました。木製の水道管も展示されています。

江戸城跡(皇居)は、中に入る方が多いですが、東側から堀に沿って進むのもおすすめ。北側は台地になっており、北桔橋門付近では、石垣が非常に高く(18.5m)鉄壁の守りとなっています。

北桔橋門より城内に入ると、天守台があります。天守閣は火災で焼失。その後、平和の時代に入り、天守閣は再建されませんでした。
―東京都 武家屋敷跡


東京都内には、随所に武家屋敷跡が残されています。例えば、千代田区にある、彦根藩(=滋賀)井伊家の中屋敷跡は、ホテルニューオータニとなっており、自由に見学できます。
【ブラタモリ大名屋敷】全ルートをまとめ|タモリさんが東京の大名屋敷の秘密を探る#200・201
―埼玉県 川越


小江戸とも言われる川越には、江戸城や江戸城下のそのままの姿が、火災に遭わずに残されています。
喜多院では、本堂への渡り廊下から、客殿(江戸城の旧紅葉山別殿を移築)の全容を見られます。また、客殿は中を見学することもできます。
喜多院には、代々の将軍が使っていた食器も残されています。家康は、質素を好み、麦飯をよく食べていたと伝えられています。また、当時主流だった、蒸し風呂のお風呂場も残されています。
【ブラタモリ・川越編】全内容・ルートを写真でまとめと要約!|地形・歴史 #9
―岐阜県 関ケ原(古戦場)


関ヶ原の戦いでは、徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成を中心に結成された西軍の両陣営が、各地で戦闘を繰り広げました(1600年、家康59歳)。
関ヶ原古戦場記念館の展望室からは、関ヶ原の戦いの舞台が一望。三成(8万人)の陣が置かれた笹尾山が見え、3キロ離れた場所に、家康(9万人)が陣を置きました。
家康川は、人数で上回りますが、家康側は、謀反の側とされ、いつ配下の武将が寝返っても、おかしくない状況でした。
家康は、関ヶ原の戦いに備え、各地の武将に160通もの手紙を書きます。そこには、石高、援軍など、各武将が欲しがりそうなものだけが、書かれていました。
伏見城(京都府)

徳川の歴代将軍を弔うための寺が養源院(京都府)。天井にある血や手の跡は、伏見城の戦い(関ヶ原の戦いの前哨戦)で犠牲になった、ある武将のものとと伝えられています。

伏見城では、石田三成4万に対し、1800人をこの武将が指揮して応戦。関ヶ原の戦いへの布石となった出来事です。
―京都府 二条城ほか


江戸幕府初代将軍徳川家康が、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城したものです。(1603年、家康62歳)。
金地院

家康のブレーンであった、エリートの僧である以心崇伝の像が飾られています。以心崇伝は、過去の事例を調べ上げ、武家諸法度を発案しました。人が人を裁くのではなく、法を守っていれば加護されるという安心感を実現し、世界的にも稀な200年続いた平和につながりました。
―大阪府 大坂の陣(古戦場)


大坂の陣は、徳川家と豊臣家の最終決戦です(1614~15年、家康73~74歳)。
大阪城の地下には、豊臣時代の城が埋め込まれています。徳川が作った大坂城は、徳川家らしい白い壁を特徴歳、倍の規模とされました。
靖国神社(東京都)

難攻不落の大坂城の天守閣を攻め落とした、国産の大砲(芝辻砲)が展示されています。熱した鉄を叩き強度を出す製法のため、火薬を増量でき、狙いも定かでした。家康は、100の大砲を駆使。
豊臣方のフランキ砲(輸入)も展示されています。
栃木県 日光|家康・東照大権現として


日光東照宮は、徳川家康を神格化した東照大権現を、神さまとして祀っています。

ぜひ見ておきたいのは、眠り猫。平和の時代にあっても、いつでも人々を守るために戦う決意を示し、徳川家康を暗示しています。
静岡県 久能山東照宮|家康・東照大権現として


久能山東照宮は、晩年を駿府(静岡市)で大御所として過ごした徳川家康が、遺言によって埋葬された場所です。
境内の博物館には、家康が使用した甲冑や火縄銃、眼鏡などが展示されています。展示されているガラス瓶には、現在も当時の薬が収められており、家康の健康への気遣いがうかがわれます。
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早速訂正致しました。ご連絡ありがとうございます。
小牧・長久手は愛知県だと思います。