ブラタモリ関ケ原編で、タモリさんが、関ヶ原の戦いの舞台を紹介しました。このページでは、ブラタモリ関ケ原編の、内容、ロケ地、アクセスを分かりやすくご紹介します。
😎マークは、現地取材済みです。
関ヶ原の戦いとは?|ブラタモリ関ケ原
ブラタモリは、関ヶ原古戦場の決戦地付近(地図)からスタートします。
関ヶ原の戦い
1600年(慶長5年)9月15日(新暦10月21日)に、現在の岐阜県不破郡関ケ原町を主戦場として行われた、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍による大規模な合戦です。豊臣秀吉の死後、後継問題などを巡って対立が深まった両軍が天下の覇権を賭けて激突し、この戦いに勝利した徳川家康は、その後幕府を開き、江戸時代と呼ばれる新たな時代を切り開きました。
アクセス 関ケ原駅から徒歩18分。途中、岐阜関ケ原古戦場記念館に寄ると便利です。
早速、関ヶ原の戦いの決戦地を訪ねます。関ケ原は、田んぼが広がる平野で、周辺は盆地に囲まれています。
アクセス 岐阜関ケ原古戦場記念館から徒歩11分。クルマは近くの廃校のグランドに停められます。
決戦地のすぐそばの山すそに、石田三成の陣地がありました(写真の左手方向)。
西軍は、おおむね高度が高い西側に陣を配し、緒戦の時点では非常に有利でした、
石田三成の陣地。ひときわ高い場所に陣を構えます。
アクセス 決戦地から徒歩数分
関ヶ原の戦いは、1600年9月15日(新暦10月21日)に、美濃国不破郡関ケ原(現在の岐阜県関ケ原町)で行われた戦いです。
天下を統一した豊臣秀吉の死後、五大老・五奉行の制約を乗り越えて、権力・権威を増したのが徳川家康。それに反発した石田三成を中心とした西軍、徳川家康を中心とした東軍が対立し、全国の有力大名を巻き込んだ戦いとなりました。
東軍が勝利し、家康は天下人となり、江戸幕府が成立。関ヶ原の戦いは、日本の歴史を大きく変える、天下分け目の戦いとなりました。
タモリさんが、旅のお題「天下の分け目は地形にあり!?」を探ります。
関ヶ原の裏に、世界遺産・佐渡金山あり?
江戸に入った徳川家康は、江戸城や城下町、新田開拓に大量の資金を必要としていました。佐渡金山は当時の仕組みでは、利益は大阪の経済に組み込まれ、大阪1極集中を支えました。
関ヶ原の戦いの後、この体制は崩され江戸の経済も発展します。ただし、佐渡金山が当時世界有数の算出量を誇ったという説に対しては、異論があります。
関東と関西の境を発見?角餅と丸餅で現代の戦い勃発!|ブラタモリ関ケ原
ブラタモリは、関ケ原の町なかを訪ねます。創業永長元年の古い旅館(ますや旅館、地図)があります。関ケ原は、古くからの宿場町。東山道は、都と東日本を結ぶ、重要な街道です。
旅館の向かいには、南へ向かう、伊勢街道への分岐点があります。伊勢街道の狭さにタモリさんはびっくり。
ほかに北国街道(金沢方面)への分岐があり、交通の要衝であることが分かります。関ケ原の南北には山地があり、東西を結ぶ唯一の場所でした。
京を守りたい石田三成は、もっとも信頼がおける武将の1人だった大谷吉継に、京につながる重要な場所を任せます。
ともに幼い頃から秀吉に仕えた、幼なじみのような間柄でした。大谷吉継は、初めは家康との戦いはとめましたが、石田三成の強い思いに応えた形です。
大谷吉継
大谷吉継は、豊臣秀吉の家臣であり、石田三成と盟友関係にあったことから、西軍として関ヶ原の戦いに赴きました。病弱な体ながらも、優れた戦略家として知られ、「白頭巾の将」と呼ばれていました。友軍の裏切りに巻き込まれつつも奮戦しましたが、最終的には西軍が敗れ、自刃して生涯を閉じました。彼の忠義心、友情と卓越した戦略は、今も語り継がれています。
関ヶ原の戦いの序盤のカギを握った大谷吉継は、数は劣勢でしたが、東西を結ぶ東山道を断ち切るように流れる川と橋(地図)を上手く使い、善戦しました。
川は天然の堀、橋は数で勝る東軍の人数を絞る役割を果たしました。
天下分け目ならぬ、関東と関西の分け目を宣言しているのが、岐阜県関ケ原町です。
関ケ原には、文字通り関があり、ここを境に「関西」「関東」となります。特に、大谷吉継が陣を構えた川は、関西、関東の境界線となります。
丸餅は関西、切り餅は関東です。
ポリタンクは、関西が青、関東は赤です。
新潟県糸魚川市も関東と関西の分け目を宣言
新潟県糸魚川市も関東と関西の分け目を宣言しています。ブラタモリ糸魚川編で訪ねています。
ブラタモリは、橋のすぐ東にある土塁跡を訪ねます。
関所を囲む古くからの土塁を活用し、西軍は、東軍を押し返しました。緒戦は、地形を巧みに利用した西軍が有利に運びました。
序盤は西軍優勢?小さな橋や古代の土塁を巧みに利用した省エネ戦法で東軍撃破!|ブラタモリ関ケ原
関ヶ原の戦い、序盤の陣形です。
東の山すそに徳川家康が本陣、北西の山中に石田三成が本陣を構えます。家康の本陣を守るように、本多忠勝、井伊直政らの陣地が敷かれます。
序盤は、西軍が攻勢。石田三成の前に構えた、三成の右腕・島左近は勢いよく前進しますが、黒田長政の鉄砲隊に奇襲攻撃を受けます。黒田長政は、軍師官兵衛の息子です。
島左近
卓越した戦闘力と忠義心で知られる戦国武将。羽柴秀吉への援軍など様々な戦いで功績を挙げました。晩年は石田三成に仕え、関ヶ原の戦いでは共に西軍として戦い、劣勢に陥った三成を戦場から逃がそうと、敵軍に突撃。最後は銃弾を浴びて死去したと伝わります。
断層(関ケ原断層の横ずれ)が、隠れた道を作りました。
黒田長政陣跡からは、少し先に島左近の陣が見え、石田三成の本陣も見えます。
中田池や八幡池(地図)に沿って、隠れた道があります。さらに西に進むと、島左近の陣を側面から討つことができる場所に出ます。
黒田長政は、側面から島左近軍を鉄砲攻撃し(赤い矢印)、島左近軍は、戦闘不能に陥ります。
周辺は、山の尾根が南北に何本か伸びています。黒田長政は、特に南に伸びた尾根に陣を置き、周囲の様子をつかみます。姿が見える島左近陣に近づくには、平地に降りる必要がありました。
しかし、尾根を東西に貫く断層の横ずれにより、ずれた場所が崩落し道ができていたのです。黒田長政は、姿を見せずに、島左近陣に火縄銃が届く距離である50m前後まで近づけたと思われます。
火縄銃の射程距離は、【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコースの「長篠・設楽原古戦場」をご覧ください。
東軍勝利の決め手?全体を見渡せる山に布陣したあの武将がついに動き出す!|ブラタモリ関ケ原
両軍の展開の全容を見られる南西の山に、小早川の軍勢が構えました。
石田三成は、小早川に関白の地位(豊臣秀頼が15歳になるまで)を示します。一方、徳川家康は、二か国を条件に出します。
東の山すそ(桃配山のふもと)に控えていた家康本隊は、平野部に前進します。一方、南西に構えた、家康にとって大きな脅威だった毛利(上の地図の範囲外)は、動きません。
この様子を、南西の山(松尾山)に構えた小早川は山上から見ていたはずです。
これを見た小早川は、東軍に寝返ります。
大谷吉継(西軍)が、小早川を防ぎますが、対抗しきれず、大谷吉継は自害します。
小早川は裏切り者?
小早川秀秋は、子に恵まれなかった秀吉の養子となり、一時は後継者とも見られていましたが、秀吉に実子ができたことで、小早川家に移されます。さらに、晩年の秀吉より、筑前・筑後(福岡県)33万石から、はるか越前(福井県)12万石への転封の処遇を受け、波乱万丈と失意を感じていました。
秀吉の死後、徳川家康の計らいで、筑前・筑後を取り戻します。小早川は裏切り者ともされますが、秀吉から受けた処遇を考えると、徳川家康についたのは納得できることです。
ブラタモリは、関ヶ原古戦場全体を見渡す岐阜関ケ原古戦場記念館を訪ねます。
決戦地や、石田三成の本陣が見えます。また、建物のすぐそばには、最終段階の徳川家康本陣跡があります。
関ヶ原の戦いの時系列です!😎 pic.twitter.com/hTEh8YTiBZ
— ブラタモリ (@buratamori2018) June 24, 2023
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— ブラタモリ (@buratamori2018) August 27, 2023
漏れる糸魚川、上越、村上などは北前船航路でカバー🚣♂️
信濃川、北前船で理解しやすく全県を売り出せば、まだまだ観光客は来そう!
動画は十日町市に信濃川が作った河岸段丘で、このエリアもカバー。 pic.twitter.com/pFJF4tlKW3