【ブラタモリ関ケ原・全ロケ地】タモリさんが関ヶ原の戦いの舞台を探る#239

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ブラタモリ関ケ原編で、タモリさんが、関ヶ原の戦いの舞台を紹介しました。このページでは、ブラタモリ関ケ原編の、内容、ロケ地、アクセスを分かりやすくご紹介します。

岐阜でブラタモリ内容
木曽三川(#240)タモリさんが、木曽三川の絶景や治水の歴史紹介。
😎現地取材 関ケ原(#239)
白川郷(#170)岐阜の山あいの世界遺産をタモリさんが訪ねます。
岐阜(#92)岐阜城のある金華山は、濃尾平野のどこからも見ることができる場所。どのような地質なのでしょうか?

関ヶ原の戦いとは?|ブラタモリ関ケ原

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ブラタモリは、関ヶ原古戦場の決戦地付近(地図)からスタート。

アクセス 関ケ原駅から徒歩18分。途中、岐阜関ケ原古戦場記念館に寄ると便利です。

早速、関ヶ原の戦いの決戦地を訪ねます。関ケ原は、田んぼが広がる平野で、周辺は盆地。

アクセス 岐阜関ケ原古戦場記念館から徒歩11分。クルマは近くの廃校のグランドに停められます。

決戦地のすぐそばの山すそに、石田三成の陣地がありました(写真の左手方向)。

西軍は、おおむね高度が高い西側に陣を配し、緒戦の時点では有利でした、

石田三成の陣地。ひときわ高い場所に陣を構えます。

アクセス 決戦地から徒歩数分

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関ヶ原の戦いは、1600年10月21日に、美濃国不破郡関ケ原(岐阜県関ケ原町)で行われた戦いです。

天下を統一した豊臣秀吉の死後、五大老・五奉行の制約を乗り越えて、権力・権威を増したのが、徳川家康。それに反発した石田三成を中心とした西軍、徳川家康を中心とした東軍が対立し、全国の有力大名を巻き込んだ戦いとなりました。

東軍が勝利し、家康は天下人となり、江戸幕府が成立。関ヶ原の戦いは、日本の歴史を大きく変える、天下分け目の戦いとなりました。

タモリさんが、旅のお題「天下の分け目は地形にあり!?」を探ります。

関ヶ原の戦いは、佐渡金山の利権争い?

佐渡の金山 手掘りで掘り進むうちに、山頂から裂け目が入った

徳川家康が江戸に入った頃、江戸は湿地帯で、コメが育ちませんでした。

江戸城や城下町、新田づくりに大量の資金を必要とした家康が目をつけたのが、佐渡金山。当時の仕組みでは、利益は大阪の経済に組み込まれ、豊臣家や石田三成に利益がありました。(ブラタモリ佐渡

その仕組みを打破するために、徳川家康が、関ケ原にて立ち上がったとも考えられています。

家康の命を受け、佐渡に派遣された大久保長安は、同時期に、徳川家を支えた石見銀山の開発も任されました(ブラタモリ石見銀山)。また、元は武田信玄に仕え、コメが採れない甲斐を支えた金山開発に携わっていました。

関東と関西の境を発見?角餅と丸餅で現代の戦い勃発!|ブラタモリ関ケ原

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ブラタモリは、関ケ原の町なかを訪ねます。創業永長元年の古い旅館(ますや旅館、地図)があります。関ケ原は、古くからの宿場町。東山道は、都と東日本を結ぶ、重要な街道です。

旅館の向かいには、南へ向かう、伊勢街道への分岐点があります。伊勢街道の狭さにタモリさんはびっくり。

ほかに北国街道(金沢方面)への分岐があり、交通の要衝であることが分かります。関ケ原の南北には山地があり、東西を結ぶ唯一の場所でした。

京を守りたい石田三成は、もっとも信頼がおける武将の1人だった大谷吉継に、京につながる重要な場所を任せます。ともに幼い頃から秀吉に仕えた、幼なじみのような間柄でした。大谷吉継は、初めは家康へとの戦いはとめましたが、石田三成の強い思いに応えた形です。

関ヶ原の戦いの序盤のカギを握った大谷吉継は、数は劣勢でしたが、東西を結ぶ東山道を断ち切るように流れる川と橋(地図)を上手く使い、善戦しました。

川は天然の堀、橋は数で勝る東軍の人数を絞る役割を果たしました。

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天下分け目ならぬ、関東と関西の分け目を宣言してるのが、岐阜県関ケ原町です。

関ケ原には、文字通り関があり、ここを境に「関西」「関東」となります。特に、大谷吉継が陣を構えた川は、関西、関東の境界線となります。

丸餅は関西、切り餅は関東です。

ポリタンクは、関西が青、関東は赤です。

新潟県糸魚川市も関東と関西の分け目を宣言

新潟県糸魚川市も関東と関西の分け目を宣言しています。ブラタモリ糸魚川編で訪ねています。

ブラタモリは、橋のすぐ東にある土塁跡を訪ねます。

関所を囲む古くからの土塁を活用し、西軍は、東軍を押し返しました。緒戦は、地形を巧みに利用した西軍が有利に運びました。

序盤は西軍優勢?小さな橋や古代の土塁を巧みに利用した省エネ戦法で東軍撃破!|ブラタモリ関ケ原

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関ヶ原の戦い、序盤の陣形です。

東の山すそに徳川家康が本陣、北西の山中に石田三成が本陣を構えます。家康の本陣を守るように、本多忠勝、井伊直政らの陣地が敷かれます。

序盤は、西軍が攻勢。石田三成の前に構えた、三成の右腕・島左近は勢いよく前進しますが、黒田長政の鉄砲隊に奇襲攻撃を受けます。黒田長政は、軍師官兵衛の息子です。

断層(関ケ原断層の横ずれ)が、隠れた道を作りました。

黒田長政陣跡からは、少し先に島左近の陣が見え、石田三成の本陣も見えます。

中田池や八幡池(地図)に沿って、隠れた道があります。さらに西に進むと、島左近の陣を側面から討つことができる場所に出ます。

黒田長政は、側面から島左近軍を鉄砲攻撃し(赤い矢印)、島左近軍は、戦闘不能に陥ります。

周辺は、山の尾根が南北に何本か伸びています。黒田長政は、特に南に伸びた尾根に陣を置き、周囲の様子をつかみます。姿が見える島左近陣に近づくには、平地に降りる必要がありました。

しかし、尾根を東西に貫く断層の横ずれにより、ずれた場所が崩落し道ができていたのです。黒田長政は、姿を見せずに島左近陣に火縄銃が届く距離である50m前後まで近づけたと思われます。

火縄銃の射程距離は、【どうする家康】ゆかりの地(城・古戦場)一覧と旅行モデルコースの「長篠・設楽原古戦場」をご覧ください。

東軍勝利の決め手?全体を見渡せる山に布陣したあの武将がついに動き出す!|ブラタモリ関ケ原

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両軍の展開の全容を見られる南西の山に、小早川の軍勢が構えました。

石田三成は、小早川に関白の地位(豊臣秀頼が15歳になるまで)を示します。一方、徳川家康は、二か国を条件に出します。

東の山すそ(桃配山のふもと)に控えていた家康本隊は、平野部に前進します。一方、南西に構えた、家康にとって大きな脅威だった毛利(上の地図の範囲外)は、動きません。

この様子を、南西の山(松尾山)に構えた小早川は山上から見ていたはずです。

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これを見た小早川は、東軍に寝返ります。

大谷吉継(西軍)が、小早川を防ぎますが、対抗しきれず、大谷吉継は自害します。

小早川は裏切り者?

小早川秀秋は、子に恵まれなかった秀吉の養子となり、一時は後継者とも見られていましたが、実子ができたことで、小早川家に移されます。さらに、晩年の秀吉より、筑前・筑後(福岡県)33万石から、はるか越前(福井県)12万石への転封の処遇を受け、波乱万丈と失意を感じていました。

秀吉の死後、徳川家康の計らいで、筑前・筑後を取り戻します。小早川は裏切り者ともされますが、秀吉から受けた処遇を考えると、徳川家康についたのは納得できることです。

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ブラタモリは、関ヶ原古戦場全体を見渡す岐阜関ケ原古戦場記念館を訪ねます。

決戦地や、石田三成の本陣が見えます。また、建物のすぐそばには、最終段階の徳川家康本陣跡があります。

滋賀でブラタモリ内容
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