【ブラタモリ彦根】タモリさんが、井伊家・彦根城の守りを探る #93

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ブラタモリ彦根編で、タモリさんが、徳川四天王の一角を占めた、井伊家の彦根城の鉄壁の守りを探ります。このページでは、ブラタモリ彦根編の内容、ロケ地を分かりやすくご紹介します。

・最新 「彦根城」世界遺産、今年度の推薦は見送り。ユネスコの諮問機関が事前に助言する新制度を利用し、より確実な登録を目指します。(2023年7月)

滋賀でブラタモリ内容
😎現地取材 関ヶ原
伊賀忍者・甲賀・信楽編(#158 159)武装農民がもととなった伊賀忍者。一方甲賀忍者は、政治的戦略で生き延びます。そして、タヌキだけでない信楽焼の魅力とは。
😎現地取材 比叡山編(#143 144)比叡山は、日本の仏教の母。最澄はどのような教えを説いていたのでしょうか?
彦根編(#93)徳川家康は、なぜ彦根に城を建てたのでしょう。西には琵琶湖、東には? そして北側の住宅地を探ると。

彦根とは?

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ブラタモリは、琵琶湖畔からスタートします。番組のために、ひこにゃんが出迎えてくれました。

ブラタモリ彦根編のテーマは、なぜ 家康は“彦根がイイ”と思った? です。琵琶湖からは、彦根城が見えています。


彦根城は、名古屋と京都の中間地点、JR彦根駅から徒歩15分の場所にあります。彦根城は、姫路城、松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定。彦根城のほか、2006年生まれのひこにゃんのキャラクターでも知られ、年間に約80万人が訪れます。

彦根の地は、徳川家康が注目した場所ですが、豊臣秀吉の家臣・石田三成も重視し、かつて佐和山城が築かれていた場所があります。

彦根城|ブラタモリ彦根

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彦根は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、徳川四天王の一角を占めた、井伊家に与えて守らせた土地です。

1602年、井伊直政(井伊家初代、「どうする家康」では演・板垣李光人)の跡を継いだ、井伊直継が、初代城主として彦根城の完成を見ました(井伊直継は、後に藩主の履歴を取り消されるため、初代としない考え方もあります)。

彦根城の建設は、江戸幕府が全面的にバックアップし、近隣の12大名が協力します。なぜ、徳川家康にとって、彦根が重要だったのでしょうか?

彦根観光協会 公式サイトの地図を加工

ブラタモリは、彦根城を訪ねます。

3つある門のうち、大手門から入り、大手道を登ります。まず目つくのが、鐘の丸。四方を監視できる円形の陣地には、2段の石垣が設けられています。かつてはやぐらが立ち並んでいました。敷地が広く、多くの兵を配置することができました。

【比較】岐阜城(織田信長の居城の1つ)は、急峻な金華山に作られたにも関わらず、5回の落城がありました。各所に陣地を作るだけの、十分な広さがなかったからだとも言われています。

【ブラタモリ岐阜】タモリ推奨の岐阜の歴史・地形・観光ルートまとめ #92

堀に囲まれた彦根城の、3つのうち2つの門(大手門・表門)からの道が合流するのが、天秤櫓とかけ橋の付近です。

四方を監視するように、2つの櫓が立てられ、かけ橋が設置されています。かけ橋がかかるのは、自然の地形を切り崩して作られた掘割です。

ブラタモリは、かけ橋の下の手前に出ます。この袋小路は、2つの櫓、かけ橋の左右の4か所から集中攻撃を受けます。彦根城に侵入しようとする敵を、壊滅状態に追い込む仕掛けでした。

ブラタモリは、階段を登りかけ橋を渡り、城内へと進みます。

天秤櫓は、かけ橋の下を通り、かけ橋を渡り侵入してくる敵を監視し、攻撃を加える機能を持っていました。

その後、曲がりくねった石段を経て、ようやく本丸手前の、太鼓門にたどり着きます。太鼓門をくぐると、いよいよ本丸です。

ブラタモリは、天守のさらに上部にある、隠し部屋に入ります(一般非公開)。壁には、鉄砲を撃つための穴が80以上あります。平和時は目立たないように、蓋がされていました。

彦根城天守閣からは、東側に山地、西側に琵琶湖を望むことができます。

彦根城は、西側に琵琶湖、東側に山並み(あるいは関が原)がある立地なのです。

このことで、東西の守りが自然地形で成り立ちます。彦根は、中山道、北国街道が通る、交通の要所でもあり、経済のうえでも重要でした。

ブラタモリ
ブラタモリ

西は琵琶湖、東は山地。では南北はどう守ったのでしょうか?

彦根城の城下町(北側)|ブラタモリ彦根

松原付近は、住宅地で、彦根城の場所より高度が低くなっています。以前は田んぼが広がっており、昭和19年以前には、別のものがあったようです。何があったのでしょうか?

引用 彦根市教育委員会

松原地区には、内湖と呼ばれる、天然の湖があったのです。

東京ドーム約15個分の広さがありました。ブラタモリは、かつて庄屋と水運を兼ねていたお宅を訪ねます。松原内湖を利用して、大量の米を運んでいた記録が残っています。戦国時代、近江の国は、全国2番目の石高に達していたのです。

彦根城の城下町(南側)|ブラタモリ彦根

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ブラタモリは、彦根城の南側を流れる、芹川せりがわを訪ねます。芹川は、まっすぐ流れているのが特徴です。なぜまっすぐなのでしょうか?

古い絵図を見ると、折れ曲がった町割りが見られます。古い川の流れの跡です。もともと、複数の曲がった川が流れていたところ、まっすぐな1本の川に付け替えたのです。

古地図を見ると、芹川への付け替えで、新たに生まれた場所には、小さな屋敷が立ち並んでいます。タモリさんが、実際に歩いて確認すると、足軽屋敷の痕跡が多数残っています。

足軽とは、歩兵のことで、騎馬による個人戦の時代は補助的な兵力でしたが、鎌倉末期に集団戦が主体となると、戦力としての重要性を増してきました。

通常、足軽の住まいは長屋ですが、彦根の足軽は、個々に屋敷を与えられていました。彦根の足軽は、なぜ広い屋敷に住むことができたのでしょうか?

彦根藩は、京都の天皇を守る任務があったのです。琵琶湖を経由すれば、6時間で京都にたどり着くことができます。では、政情が安定してからは、足軽は、どのような暮らしをしていたのでしょうか?

引用 公益社団法人 彦根観光協会 / 彦根市観光交流課

地図印の場所には、ずれて交わった小さな交差点があり、建物が突き出て、のぞき窓があります。旧彦根藩足軽組辻番所跡です。

交差点がずれていることで、遠くまで見通すことができました。

周辺には現代の交番とも言える辻番所が、37か所存在したのではないかと考えられています。辻番所において、足軽は24時間の交代制で、城下への出入りを監視していたのです。

  • 旧彦根藩足軽組辻番所跡へのアクセス 彦根城大手門から南西へ、徒歩12分。

彦根には、町家を改装した宿があります。

仏壇とサムライの関係|ブラタモリ彦根

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ブラタモリは、芹川の流れをJR線の方向に歩きます。仏壇店が目立ちます。

彦根の仏壇は、武具の製造から変遷し、発展したと考えられます。

タモリさんは、永楽屋本店で仏壇の金箔押し(貼り付けること)に挑戦します。金箔は、1万分の1ミリしかなく、想像以上に難しい作業でした。

滋賀でブラタモリ内容
😎現地取材 関ヶ原
伊賀忍者・甲賀・信楽編(#158 159)武装農民がもととなった伊賀忍者。一方甲賀忍者は、政治的戦略で生き延びます。そして、タヌキだけでない信楽焼の魅力とは。
😎現地取材 比叡山編(#143 144)比叡山は、日本の仏教の母。最澄はどのような教えを説いていたのでしょうか?
彦根編(#93)徳川家康は、なぜ彦根に城を建てたのでしょう。西には琵琶湖、東には? そして北側の住宅地を探ると。

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