【ブラタモリ静岡市】タモリさんが「どうする家康」の舞台、駿府を探る|ロケ地一覧#224

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ブラタモリ静岡市編で、タモリさんが静岡市を訪ね、徳川家康が人生で3度も住んだ静岡市や駿府城を探りました。ロケ地、内容、関連情報をくわしくご紹介します。【再放送・見逃し情報はこちら





下のリンクで「どうする家康」の体験視聴もご案内中です。

静岡でブラタモリ概要
現地取材 ブラタモリ大井川(#225)放送延期となり、2023年1月に放映されます。
現地取材 ブラタモリ静岡市(#224)どうする家康の第1話で登場した、今川義元の住まい今川館。その痕跡をタモリさんは、見学しています。
現地取材 ブラタモリ伊東(#208)伊東を人気温泉地にした、海と山の幸とは?
現地取材 ブラタモリ浜松(#153)浜松~なぜ浜松が楽器の町になった♪~
現地取材 ブラタモリ浜名湖(#152)浜名湖~“ウナギといえば浜名湖”なのはなぜ?~
現地取材 ブラタモリ下田 (#107)幕府の意向で不本意ながら下田入りしたペリーですが、大変気に入ります。祭りは外国人も歓迎です。
現地取材 ブラタモリ天城越え(#104,105)天城越えの歌が作られた、巨石のある湯ヶ島温泉を起点に、難路だった天城越えをめざします。
現地取材 ブラタモリ三保松原・久能山(2018年新春SP)徳川家康お気に入りの場所が三保松原。タモリは、一富士二鷹三茄子に登場する折戸なすを調べます。
現地取材 ブラタモリ熱海(#27)ビーチや歓楽街でなく、 海食崖と海蝕洞の見学から。多賀火山が熱海を生んだ?別荘跡も訪問。
ブラタモリ富士山(#19,20,21)冨士山本宮浅間大社からスタートし、もっとも最近の噴火である宝永火口を経て山頂をめざします。

【追記】大河ドラマ「どうする家康」初回(1月8日放送)とは?

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家康は、幼少時、40代、晩年の3度に渡り駿府を住居としてます。大河ドラマ「どうする家康」の第1話で扱われたのは、幼少期、戦国大名・今川義元の人質として、駿府に住んでいた頃の出来事です。

静岡駅北口 幼少期の家康を見守る今川義元

上の像から分かるように、人質と言っても、衣食住や教育を保証し、今川義元はわが子のように、幼少期の家康をかわいがっていたようです。(家康の名前は、松平竹千代→14歳で松平元信→結婚で松平元康と変遷しますが、ここでは「家康」と呼びます)

戦国時代に生まれた家康[松本潤]。生まれ故郷の三河(岡崎)は、西に織田信秀(信長の父)、東に今川義元の強豪に挟まれた小国でした。そんな力関係から幼少期の家康は、今川義元の人質として、駿府の今川館に住まいます。

今川館では、今川家重臣の娘・瀬名[有村架純]と恋に落ちます。今川義元は、恋敵であった息子・今川氏真うじざね[溝端淳平]と武道で勝負するように命じます。氏真に勝ったことのなかった家康は、普段のように気遣うことはせず、大逆転勝利。無事結婚式を挙げます。

駿府(静岡)の今川義元は、三河を飛び越え、織田領の尾張に進軍します(桶狭間の戦いが開戦)。家康には、拠点の1つ大高城の援護を命じます。大高城に近い場所で、家康の配下の三河の武士たちは、捨て駒ではないかと不満を口にします。しかし、危険を顧みず、今川義元は陣地を訪ね、家康にわが息子と思う印として、特別なよろいかぶとを授けます。

ところが、武運尽きた今川義元は戦死。家康は、織田軍に命を奪われるのを恐れ、一度は身を隠しますが、改めて陣地に戻り、三河衆の歓迎を受けます。

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ブラタモリでのポイントは、今川館はどこにあったのかです。今川義元は強力な武将でしたが防衛機能は別の城に求め今川館は住まいや政治の場として使用していたようです

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静岡市と駿府城公園

静岡鉄道
静岡市でJRと競争を繰り広げる静岡鉄道
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ブラタモリは、静岡市を訪ねます。静岡県の中部に位置する人口約68万人の大都市で、浜松とともに全国5位の都市圏を形成しています。

ブラタモリ浜松

ブラタモリは、駿府城(駿府城公園)からスタートします。

徳川家康像 駿府城

かつては駿府すんぷと呼ばれ、徳川家康が、都合3回、人生で最も長い時間(合計25年)を過ごした土地としても知られています。

駿府は、駿河の国府(政治の中心)の略。駿河の国の中心となりますが、比較的地味な場所。なぜ家康はここを選んだのでしょうか? ブラタモリ静岡市編では、旅のお題「家康が愛した駿府ってどんな所?」を探ります。

古代から千年以上も地域の中心!駿府城の中途半端に見える立地の驚くべき秘密とは?|ブラタモリ静岡市

駿府城の東御門
駿府城の東御門(巽櫓につながる)
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ブラタモリは、静岡駅から北へ徒歩約15分の場所にある、駿府城を訪ねています。

駿府城 マップ

天守は残されていませんが、やぐら(見張り台)や門は復元されており、城の全容がよく分かります。

駿府城 石垣

二の丸御門の周辺です。

家康は、少年時代(8〜19歳)、豊臣秀吉の家臣として5か国の戦国大名だった時代(45〜49歳)、そして江戸での政権を譲った後、晩年の時代(66〜75歳)、駿府に居を構えました。

発掘!駿府城は江戸城より大きかった!|ブラタモリ静岡市

駿府城 天守台 発掘風景
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駿府城の天守台は、どのくらいの規模だったのでしょうか? タモリさんは、駿府城の発掘現場を訪ねます。

巨大城郭というと、江戸城や大阪城、名古屋城、熊本城がよく挙がります。

江戸城 天守台

徳川将軍家の居城である江戸城の天守台は、西辺(写真では左手)約45m、北辺(右手)約41mです。(※江戸城は、天守台のみで天守閣は作られませんでした)

駿府城 天守台 発掘風景

盛り土手前のポールの高さは12m。石垣の高さを示し、マンションの4階建てにあたります!

発掘調査の結果、2018年に静岡市が発表した駿府城天守台は、西辺が約68m、北辺が約41m! 駿府城の天守台の方が、大サイズだったのです。

  • 江戸城の天守台 45×41
  • 駿府城の天守台 68×41

駿府城の石垣は、絵図から出土が予想されていました。しかし、関係者も驚くようなものが出土しています。

駿府城発掘現場 内側は徳川家康が40代に作ったお城の石垣

写真の手前と奥で、石垣の作り方が異なります。奥は、徳川家康が40代に作ったお城の石垣(野面積み)。手前は、晩年に大きく作り直したもの(打込みぎ)だったのです。

駿府城 発掘現場地図

40代の方の城(天正期天守台)は、予想されておらず、関係者を驚かせました。

手前が晩年の慶長期天守台、奥が40代の天正期天守台。さらに、奥の天正期天守跡と同じ場所からは、今川義元も暮らした、今川館の堀が発掘されました! 

※左手の盛り土は、天守台があった場所に再現した訳ではないようです。

ブラタモリ日本の石垣スペシャル

過去の発掘調査から、天守台があった場所には、室町~戦国時代の今川氏の本拠地があったと推定されていました。天守台発掘調査でも。天正期(豊臣方)天守台の内部から今川期の遺構と異物が発見されました。
発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀(①)と窪地状(または池状)の遺構です。薬研堀は、深さ約1.7m、幅約3mで、この辺りに何らかの建物があり、それらが堀で囲まれていた可能性が考えられます。窪地状(または池状)の遺構などからは、貴重な中国製の磁器が見つかっており、これらの遺物は所有者の権威を示しています(②)。

静岡市観光交流文化局 歴史文化課による

さらに、今川時代の、金箔を貼ったかわらけ(お酒を飲む皿)が出土しています。かわらけは、使い捨てのもの。今川家が、贅を尽くしていたことが分かります。タモリさんは「そんなことをやってから、今川に滅ぼされるんだよね!」(桶狭間の戦い)と冗談を言います。

ただ、近年の研究で、今川義元の大軍が織田信長の少数の軍に敗れたという従来の説は、誤りの可能性があり、双方互角に近く、時の運があったという見方も出てきました。その新しい史観は、大河ドラマ「どうする家康」の今川義元像に反映されています。

さらに、古代の国府もこの場所にあったと推定されます。

駿府城の歴史を確認する

駿府城の歴史を確認する

 今から約六五〇年前の室町時代、今川範国が駿河守護職に任じられて以降、駿河国は今川氏によって治められました。九代義元の今川氏全盛の頃、徳川家康は七歳から十八歳までの間、人質として駿府に暮らしました。衛禄三年(一五六〇)今川義元が桶狭間で織田信長に討たれた後、今川氏は急速に衰退し、永禄十一年(一五六八)武田氏により駿府を追われました。
 徳川家康は、駿府の武田氏を天正十年(一五八二)に追放した後、同十三年(一五八五)には駿府城の築城を開始し浜松城から移りました。しかし徳川家康は、天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉により関東に移封され、豊臣系の中村一氏が駿府城の城主になりました。その後、徳川家康は、関が原の戦いに勝利し、慶長八年(一六〇三)に征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きます。慶長十年(一六〇五)に将軍職を息子秀忠に譲り、同十二年(一六〇七)には大御所として三度駿府に入りました。このときに天正期の城が拡張整備され、駿府城は壮大な新城として生まれ変わりました。城には三重の堀が廻り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」、「二の丸」、「三の丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとしています。
 大御所の城にふさわしく、築城に際して「天下普請」として全国の大名が助役を命じられ、各地から優秀な技術者や多量の資材が集められました。
 また、安部川の堤の改修や、城下町の整備なども行われ、現在の静岡市街地の原形が造られました。(静岡市教育委員会)

駿府城は、南に駿河湾、西に安倍川・大井川、北は山地、東には久能山や遠く箱根山があり、天然の要塞と言えます。

しかし、もう少し狭い範囲で見れば、駿府城の場所は、海や川から遠く、さらに山からも離れた中途半端な場所。なぜ、国府がここに作られ(推定)、今川氏や徳川家康も、この場所を選んだのでしょうか?

180度折れ曲がる奇跡の川を発見!|ブラタモリ静岡市

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ブラタモリは、駿府城と安倍川の間にある、賎機しずはた山の西側を訪ねます(地図)。

建物の向こうが賤機山。歩道の下の水路(暗渠)を確認すると、水流は南に流れています。

暗渠は、ここで大きく曲がっています(写真では左から右へ)(地図)。このすぐ先の静岡浅間神社付近で、川は開渠となります。

川は、北→南→東→北と、鋭角的な賎機山の裾野をなぞるように流れていました。

ブラタモリ
ブラタモリ

なぜ川は、ぐるりと180度曲がっているのでしょうか?

これは、賎機山の西を流れていた安倍川が、自ら運んだ土砂に遮られ、賎機山の東側に流れ込んだ時期の痕跡です。このとき、賎機山の東側一帯に土砂がたまり、高台になりました。

高台かつ賤機山が堤防となり、水害に強い駿府城のあった高台は、1000年以上も政治の中心となったのです。

家康は究極のデベロッパー?税免除の秘策で町人誘致|ブラタモリ静岡市

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ブラタモリは、決まり事を掲示する「札の辻」(写真左に石碑)だった場所を訪ねます。ここは城下町の中心でした(地図)。

周辺の道路は、すべて互いに直行しています。駿府城の南側は、碁盤の目となり、町人が住んでおり、町割りは今も残っているのです。

※タモリさんは、札の辻から、旧東海道に沿って東へマクドナルド前まで歩きました。

そして町人地を囲むように、武家地が広がっています。町人も武士も、ほかから連れてきた人たちです。

伏見(山城国)から移住させた人が多いことの名残が、ふしみやです(地図)。

ブラタモリ京都伏見

ほかには、となりの遠江国、甲斐の国から人を集めていました。ふしみやに残る古文書を見ると、宅地税(現在の固定資産税)を、子孫の代まで免除すると書かれています。

税免除の秘策で町人を誘致した徳川家康は、武将というより、まちづくりのデベロッパー(開発事業者)と呼んだ方が、ふさわしいかも知れません。

ブラタモリ三英傑

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ブラタモリは、城下町の西側の地名に注目します。まず「金座町」の地名が、見つかります(地図)。タモリさんは、日銀静岡支店、金座ビルを経て、金座稲荷神社まで歩きます(地図)。

金座稲荷神社は、古い絵図みると、後藤庄三郎屋敷とあります。徳川家康のもとで、慶長小判(金貨)の金細工をしていた人物です。ほかに銀座も駿府にはありました。金貨・銀貨は、江戸ではなく、駿府で鋳造されていたのです。

江戸の町づくりがまだ道半ばで、「大坂城」には宿敵がいた時代。江戸が首都になるかどうかまだわからない状況で、駿府に首都機能の一部が与えられたと考えられます。

ブラタモリ大阪城

家康の死後17年経つと、城主が不在となり、武士は江戸に移り、武家は空き家となりました。しかし、土地だけはその後200年、幕府が押さえていました。200年後に駿府にやってきたある有名な人物とは、誰だったのでしょう?

徳川慶喜、趣味三昧の楽園生活とは?|ブラタモリ静岡市

 徳川慶喜が過ごした場所 静岡市
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最後の将軍 徳川慶喜が大政奉還の後、20 年余りを過ごしたのも駿府の町でした。

駿府は、徳川家が江戸時代を通じて、徳川家にとって大切な場所として保持されてきました。そのため、将軍を退いた後の住まいに、ふさわしい場所でした。

徳川慶喜 屋敷跡

現在は料亭の浮月楼(地図)がその場所です。日本庭園(写真右手)は、徳川慶喜の時代と似た配置で残されています。

徳川慶喜は、政治に目を向けないよう、趣味に没頭して晩年を謳歌しました。

訂正 初出時「浮月楼」の名前に誤りがありました。訂正いたします。

街なかに謎の張りぼてビル?城と駅をつなげるメインストリートの秘密|ブラタモリ静岡市

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ブラタモリは呉服町通りを訪ねます(地図)。異なるデザインのビルが、なぜかつながっています。いずれも4階建てです。

ブラタモリは、ネネチキン 静岡呉服町通り店(地図)の店内に入り、許可を得て4階へ上ります。すると、4階の部分は屋根がなく、壁があり空が見える、不思議な空間です。いずれの建物もこの構造で、実は3階建て。なぜ4階建て風の概観なのでしょうか?

これは、防火ビルと呼ばれ、防火壁を兼ねているのです。向かい側には、3階建てに見える防火ビルが連なっています。タモリさんが、1階に降りて歩いてみると、静岡駅前にたどり着きました。

防火ビルは、静岡駅と古い城下町をつなぐ商店街(横につながったデパート)として作られ、新旧の町が一体化し、発展してきたのです。これも、家康の功績かも知れません。地元の人は、いまでも城下町へ行くことを「お町に行く」と表現しています。

静岡でブラタモリ概要
現地取材 ブラタモリ大井川(#225)放送延期となり、2023年1月に放映されます。
現地取材 ブラタモリ静岡市(#224)どうする家康の第1話で登場した、今川義元の住まい今川館。その痕跡をタモリさんは、見学しています。
現地取材 ブラタモリ伊東(#208)伊東を人気温泉地にした、海と山の幸とは?
現地取材 ブラタモリ浜松(#153)浜松~なぜ浜松が楽器の町になった♪~
現地取材 ブラタモリ浜名湖(#152)浜名湖~“ウナギといえば浜名湖”なのはなぜ?~
現地取材 ブラタモリ下田 (#107)幕府の意向で不本意ながら下田入りしたペリーですが、大変気に入ります。祭りは外国人も歓迎です。
現地取材 ブラタモリ天城越え(#104,105)天城越えの歌が作られた、巨石のある湯ヶ島温泉を起点に、難路だった天城越えをめざします。
現地取材 ブラタモリ三保松原・久能山(2018年新春SP)徳川家康お気に入りの場所が三保松原。タモリは、一富士二鷹三茄子に登場する折戸なすを調べます。
現地取材 ブラタモリ熱海(#27)ビーチや歓楽街でなく、 海食崖と海蝕洞の見学から。多賀火山が熱海を生んだ?別荘跡も訪問。
ブラタモリ富士山(#19,20,21)冨士山本宮浅間大社からスタートし、もっとも最近の噴火である宝永火口を経て山頂をめざします。

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