NHK番組のブラタモリ伊勢神宮編で、タモリさんが伊勢神宮の地形・歴史(御師など)を紹介します。この記事では、ブラタモリ伊勢神宮編の全内容・ルートを写真でまとめて紹介します!
内容はもくじから。
😎見逃した方はこちらから
ブラタモリ日本の温泉 | ブラタモリ過去の放送回一覧 | タモリさん、オールナイトニッポンSP |
坂タモリ出版 推奨の坂は?(第8位で紹介) | 史上最大の反響「ブラタモリフォッサマグナ」 | ブラタモリ公式サイト |
ブラタモリ「奇跡の編集力」 | ブラタモリ書籍一覧 | タモリさんが監修!カレーうどん千吉 |
😎過去回ロケ地 完全収録
ブラタモリが、長岡→燕・三条→新潟市を、信濃川なしには語れない地域としてまとめてくれそう!😎
— ブラタモリ (@buratamori2018) August 27, 2023
漏れる糸魚川、上越、村上などは北前船航路でカバー🚣♂️
信濃川、北前船で理解しやすく全県を売り出せば、まだまだ観光客は来そう!
動画は十日町市に信濃川が作った河岸段丘で、このエリアもカバー。 pic.twitter.com/pFJF4tlKW3
三重でブラタモリ | 内容 |
伊賀忍者・甲賀・信楽編(#158 159) | 武装農民がもととなった伊賀忍者に対し、甲賀忍者は、政治戦略で生き延びます。そして、タヌキだけでない、信楽焼の魅力とは? |
伊勢神宮(#40,#41) | ブラタモリは、御師、式年遷宮、おかげまいりなど、伊勢神宮のあまり知られていない秘密を探ります。 |
志摩(#39) | イセエビ、あわび、かつお節、真珠などを育む、志摩海岸の秘密とは? |
ブラタモリ伊勢神宮が最高視聴率18.6%を達成!
2016年6月4日に放送された、ブラタモリ伊勢神宮編(前編)が、番組過去最高(放映当時)となる18.6%の視聴率を達成したことが分かりました。同日までの放送で、視聴率が13%を超えたのは以下の回でした。
- 2015.07.20 13.3% ブラタモリ東京駅
- 2015.11.21 13.0% ブラタモリ軽井沢への道(横川)
- 2016.01.23 14.7% ブラタモリ小田原
- 2016・01・30 13.5% ブラタモリ松山
- 2016.02.06 14.0% ブラタモリ道後温泉
- 2016.04.20 13.1% ブラタモリ熊本(後編)
- 2016.04・30 14.4% ブラタモリ京都嵐山
- 2016.05.07 16.0% ブラタモリ京都伏見
- 2016.05.14 14.0% ブラタモリ横浜
- 2016.06.04 18.6% ブラタモリ 伊勢神宮(前編)
伊勢神宮へのアクセス
- ● 近鉄・JR線伊勢市駅
- ● 伊勢神宮外宮
- ● 伊勢神宮内宮
名古屋から伊勢神宮(伊勢市駅)への交通は、近鉄線とJR線があります。本数、車両の良さから、近鉄特急を利用する人が大半です(伊勢神宮参拝切符が便利)。
伊勢神宮は、外宮(米や食べ物の神様)→内宮(日本人の総氏神である天照大御神を祀る)の順に参拝します。
- 伊勢神宮外宮:近鉄、JR線から伊勢市駅から徒歩5分。
- 伊勢神宮内宮:外宮よりバスで約10分。
なぜ人は伊勢をめざすのか?|ブラタモリ伊勢神宮
ブラタモリは、伊勢神宮の内宮からスタート。現在の伊勢神宮には、毎年800万人以上もの人が訪れます。
平安末期から、貴族に布教を始めていた伊勢神宮。鎌倉時代には、庶民にも布教を開始します。江戸期には、農民にも信仰が広がり、東日本では、一生に一度は伊勢詣と言われるようになりました。江戸末期には、日本人の6人に1人が参拝したとされます。
なぜ人は伊勢をめざすのでしょうか?
ブラタモリは宇治橋を訪ねます。伊勢神宮(内宮)への玄関口、五十鈴川にかかる美しい橋です。
宇治橋は、ほかの建物と同様、20年に1度渡し替えます 。20年で約1億人(年に約400万人)が渡るため、20cmの橋板が8cm以上も減るのです。
五十鈴川で手を清めるのが古くからの習わしです。宇治橋を渡って右にしばらく歩くと、川面に降りる階段があり、五十鈴川御手洗場と呼びます。
(五十鈴川の水をくみ上げた、手水舎で代用することもできます。)
ブラタモリでは、古式通り、五十鈴川御手洗場に立ち寄りました。境内でタモリさんは、皇學館大学の新入生と出会います(2021年のスペシャルではカット)。タモリさんは父親が皇学館大学を第1志望にし、家族に反対された逸話を披露します。
内宮の地形と御正殿|ブラタモリ伊勢神宮
出典:伊勢市観光協会
ブラタモリは、五十鈴川御手洗場を過ぎ、御正殿へ向かいます。タモリさんは、ゆるやかな坂道になっていることに気づきます。
川を背負う上り坂といえば、どんな地形でしょうか?
背後に川がある上り坂といえば、河岸段丘です。伊勢は扇状地が広がり、水害が多い場所。御正殿が、五十鈴川の河岸段丘上に建てられたのは、地盤がしっかりし、水害に強いためです。
タモリさんは、御正殿に参拝します。
江戸時代の絵図を見ると、1つで良いはずの御正殿が隣り合わせに2つ書かれています。なぜなのでしょうか?
これは1300年(室町時代の一時期を除く)続く式年遷宮と呼ばれ、御正殿その他の建て替えの行事を表わしています。
神宝(しんぽう/かんだから)と呼ばれる宝物、調度品、装束類もすべて新調します。20年ごとに建て替えるのは、伊勢神宮が、ヒノキの素木を礎石なしにそのまま使うなど、独自の神明造(唯一神明造)を採用していることも背景にあります。
(参考)後世に何らかの意図を伝える場合、通常は金属器など「壊れにくいもの」を選びます。しかし壊れにくいものもいつかは壊れ、判読が不明になってしまうものも。そのため最も確実に後世に意図を伝える媒体は、「壊れやすいもの」だという説があります。
式年遷宮には信仰を伝えるという狙い以外にも、20年おきに信仰と参拝の機運を盛り上げるという意図があります。次の式年遷宮は、(2016年の初回放送から)17年後の2033年となります。
番組放映時、御正殿は見学することができなかったため、ブラタモリは似た建築である御稲御倉神の構造を確認します(2021年スペシャルではカット。場所は上の地図の赤丸)。
茅ぶきの屋根をヒノキで支える、神明造です。しかし、タモリさんが、外から見える「棟持ち柱」をよく見ると屋根との間にすき間があり、直接屋根を支えていません。代わりに、横板をつなぎ合わせた壁が屋根を支えています。
なぜ、柱でなく、壁で屋根を支えているのでしょうか?
この形状とすることで、屋根の重みにより壁のすきまをふさぐことができます。御稲御倉神は、米を貯蔵するため、すき間を埋めることが肝心だからです。 年数がたつと、徐々に屋根が重みで降りてきます。最後には飾りに過ぎなかった礎石のない柱が、実際に屋根を支えることとなり、これが建て替え(遷宮)のサインとなります。この構造も20年ごとの遷宮の背景にあります。
神明造は、もともと高床式倉庫の作りを発展させたものなのです。
式年遷宮には、あわせて1万本のヒノキを使用します。どのように運ぶのでしょうか?
これらは五十鈴川水運で運びます(御木曳という行事に名残り)。なお、解体した材木は鳥居などに再利用します。
※境内の宇治橋鳥居(=入口の宇治橋手前)は、旧御正殿のリサイクルです。
外宮・山田の繁栄と御師(おんし)の役割|ブラタモリ伊勢神宮
- ● 近鉄・JR線伊勢市駅
- ● 伊勢神宮外宮
- ● 伊勢神宮内宮
外宮の門前町である山田は、大変栄え、内宮の門前町である宇治の8.4倍の規模を誇りました。これは、なぜなのでしょうか?
背景には、江戸時代、布教の役割に加え、旅行会社のような役目を果たした神職・御師の存在があります。外宮の門前町には、最盛期には611軒もの御師の拠点がありました。出雲の御師は「おし」と呼び、伊勢では「おんし」と呼ばれます。
参考 ブラタモリ出雲大社
宮川と伊勢講(2021スペシャルでは割愛)|ブラタモリ伊勢神宮
- ● 宮川橋(右岸が「中川原」)
- ● 筋向(ずじかい)橋
- ● 旧御師・丸岡宗大夫邸
ブラタモリは、伊勢神宮の西を流れる宮川を訪ねます。江戸時代の参拝者は、現在は宮川橋がある宮川を、渡し船で渡りました。
- JR宮川駅または山田上口駅から徒歩12分
地図上の右岸は中川原と呼ばれ、ここで御師の使いの者が大きな看板を手に、参拝客を待ちかまえました。
粘り強い布教の成果から、江戸時代には、東日本を中心に農民まで信仰が広がりました。全国に出向き、布教の役割を担ったのが御師です。各地には参拝のための互助会である、伊勢講が誕生しました。
多額の旅費は、個人ではまかなえなかったため、共同で旅費を積み立て、くじ引きで当たった人が、農閑期に伊勢へ参拝することができました。
また、おかげまいりと呼ばれる伊勢参拝のブームが、60年サイクルで起きました。この時期には、商家の奉公人や子息が勝手に出かけても、お守りやお札を持ち帰ればおとがめなしとされ、旅費が不足しても、道中で施しを受けられる慣習がありました。
これらは、抜け参りとも呼ばれ、一行は旅ができるのは神様のおかげという意味で「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と歌いながら伊勢神宮へ向かいました。この慣習は、社会で弱い立場の人のための、調整弁のような役割だったのかもしれません。
参考 おかげまいりは、1650年、1705年、1771年、1830年の各年。1830年には約500万人もが参拝したと考えられます。
参道・中川原を歩く|ブラタモリ伊勢神宮
タモリさんが御師の案内で参道(旧参道)を歩くと、筋向橋に着きました。
- JR山田上口駅徒歩7分、近鉄宮町駅徒歩10分
この付近で、大阪と江戸からの参道が合流します、現在は暗渠(地下水路)になっている川を渡ります。この場所が、聖と俗の境とされていました。
外宮の門前町に611軒あった御師宅のうち、ただ1軒残るのが御師・丸岡宗大夫邸です。ブラタモリでは、邸宅の中も取材しました(一般非公開)。御師としては決して大規模ではなかったとのことですが、最大50人が宿泊できる部屋数を備え、まかないのためにの4人が同時に使えるまな板も保存されていました。
江戸時代の御師は、布教の道具としての「お札」 伊勢名物「きざみめみみ」(めかぶを乾燥させたもの)「伊勢暦」(カレンダーの元祖)をプレゼントし、庶民の心をつかんでいきました。ブラタモリでは、お椀にあけた「きざみめみみ」にお湯を加え、当時の味を再現しました。
現在の伊勢名物の代表格は赤福。中部地方では、独自のCMソングでもおなじみです。ええじゃないかは、1867年に四国、近畿、東海地方などで発生した、民衆が踊り狂う騒動で、伊勢へのおかげ参りと、共通項があると言われています。
参拝旅行の拠点 御師宅(丸岡宗大夫邸)|ブラタモリ伊勢神宮
- ● 宮川橋(江戸時代は渡し船。渡ると御師の使いが出迎える)
- ● 筋向橋(俗から聖域に入る)
- ● 旧御師・丸岡宗大夫邸
多数あった御師宅のうち、いまも残る丸岡宗大夫邸を、ブラタモリは訪ねます。
タモリさんは、古い伊勢参拝の道中記(参拝者の日記)が見せてもらいます。それによると17名の参拝者一行は、名勝・二見浦→御師宅(宿泊)→外宮(午前)→御神楽の奉納(午後)のスケジュールをこなしています。
一行は、高い費用を負担し御神楽(神を祀るための音楽と踊り)として、倭舞(奈良春日大社や伊勢神宮特有の神楽)を奉納しています。最上ランクのお神楽は、6時間を要する壮大なものでした。
途中に休憩があり、食事、酒、お菓子などが振る舞われます。御師宅での食事は、非常に豪華なものでした。煮物、なます(酢のもの)、刺身、汁物、貝、あわび、鯛などです。鯛は、当時普及していなかった醤油でなく、煎り酒で食べます。
鯛のような淡白な魚は、本来は炒り酒の方が、味が生きるのです。
煎り酒とは
- 室町~江戸時代にかけて、刺身に添えられた調味料。
- 純米酒に、糖分のない梅干し(現在はカツオ節、昆布も)を加え、濃く煮詰める。
- 使い道は、刺身、卵かけごはん、焼き魚、野菜炒めの仕上げなど。
- オリーブオイルと混ぜ、サラダ、カルパッチョにも。
道中記によると、5泊6日の伊勢参拝の費用は60両。現在の600万円から1000万円にあたります。資料によると、一行は、ある日古市を訪ねています。
古市を訪ねた日は、夫婦以外の若手は、夕食の用意不要との記録があります。なぜなのでしょうか?
歓楽街・古市|ブラタモリ伊勢神宮
宇治山田駅の「宇治」は内宮の門前町、「山田」は外宮の門前町を指します。
2つの門前町を結ぶ場所が、古市です。遊郭が立ち並び、遊女1000人を抱える大歓楽街でした。男女ともに遊べるよう、芝居小屋や料理旅館もありました。
当時の料理旅館のなかで、麻吉旅館だけが現在も残っています。
ブラタモリでは、内部の見学をしています。斜面の5階建てで、景色が非常に良い旅館です。
河崎 伊勢の食や暮らしを支えた商人の町(2021スペシャルでは割愛)|ブラタモリ伊勢神宮
- ● 伊勢河崎商人館
- ● 和具屋
ブラタモリ伊勢神宮後編では、外宮(近鉄、JR線伊勢市駅から徒歩5分)のすぐ北にある旧御師・丸岡宗大夫邸、次いで外宮の少し離れた東にあるかつての歓楽街・古市を訪ねました。
続いて、外宮からやや離れた北東にある、商人の町・河崎へ向かいます。
河崎は、全国各地から伊勢に至る、海運と陸運の中継地点です。
タモリさんは、上の写真の伊勢河崎商人館付近の川辺から、川から引き込んだトロッコレールが残っている、和具屋付近の古い町並みを歩きました。
ブラタモリは、地元の富田さん宅を訪ねます。薪炭(燃料)、甘藷、日用雑貨などを扱う、雑貨商店を営んでいました。富田さん宅では、細長い紙の束が見つかります。これは山田羽書と呼ばれる当時の地域通貨で、金銀への換金が可能でした。
山田羽書には、各御師の名前が記されています。信仰と御師の経済力が、貨幣の信用を裏書きする形です。高い通用力を背景に、地域通貨制度は桑名、名古屋にも波及しました。地域通貨の原点ともいえる存在です。
古い家が残る河崎本通りのせとものや「和具屋」さん。
— 雑貨奥様 (@zakkaokusama) December 27, 2018
「倉庫見学の人百円頂きます」の張り紙につられて、店主に100円を渡したら、300年続く2階建倉庫を案内してくれました。地面にはトロッコのレールの跡も。
わくわくしてきましたよ♪#伊勢市 #伊勢市駅 #伊勢河崎 #陶器店 pic.twitter.com/3l580nTH8Z
江戸時代に繁栄した外宮周辺のユニークなスポットを紹介したブラタモリは、続いて近代や戦後の伊勢神宮に焦点を当てます。
近代の伊勢神宮を支えた御幸道路|ブラタモリ伊勢神宮
明治4年、伊勢参拝の要だった御師制度は、廃止されてしまいます。世襲の一族が、神道に利権を持つことを、明治政府が嫌ったためです。
しかし、明治43年、明治天皇参拝を機に御幸道路(現・国道23号)が整備され、伊勢参拝が再度活性化しました。内宮の前には、国道23号の道路標識に「終点」と添えられています。
(注)天皇が各地にお出かけになることを、古代から行幸・御幸(読み方は「みゆき」ほかさまざま)と呼びます。なお、御幸は天皇以外に用いる場合もあります。
近代の伊勢神宮を支えた宇治山田駅|ブラタモリ伊勢神宮
ブラタモリは、宇治山田駅に移動します。
昭和6年、近鉄は特急の高速化にあわせ、社運を賭け、木造建築が並ぶ場所に、洋風建築の宇治山田駅舎を完成させました。外観はテラコッタと呼ばれる陶器のタイルを利用しています。
内装にもこだわりがあり、駅だけを見学に来る人も多数ありました。国の登録有形文化財。
宇治山田駅の階上にあるホームの横に、バスのりばの跡があります。
かつては、鳥羽や賢島行きの観光バスが、坂を上がり横づけし、近鉄特急からすぐに乗り換えられる便宜が図られていました。バスは地上から上がってきたあと、専用の転車台(昭和36〜平成5)で折り返していました。現在でも転車台は、そのまま残されています。バスの転車台は、大変珍しいものです。
宇治山田駅ホーム端から見える、架線の鉄柱をよく観察すると、左側にも「八角形」の接続部品があります。なぜなのでしょうか?
これは、左方向(伊勢神宮内宮)に線路の増設を予定していたことを示唆しています。
賑わいを取り戻したおはらい町|ブラタモリ伊勢神宮
国道23号伊勢街道(旧御幸道路)と並行し、伊勢神宮内宮への入口・宇治橋につながる通り、おはらい町です。
バスによる参拝客が素通りするようになり、30~40年前に客足が遠のいた時期がありました。日本一滞在時間が短い観光地と、揶揄されることもありました。
しかし、61回目の式年遷宮を期に、まちなみ保全事業として、江戸時代の建築様式に整えたところ、20万人だった観光客が、500万人にV字回復した歴史があります。
伊勢神宮には、ほかの神社にない式年遷宮があり、それを目標にまちづくりが進められてきたのです。
三重でブラタモリ | 内容 |
伊賀忍者・甲賀・信楽編(#158 159) | 武装農民がもととなった伊賀忍者に対し、甲賀忍者は、政治戦略で生き延びます。そして、タヌキだけでない、信楽焼の魅力とは? |
伊勢神宮(#40,#41) | ブラタモリは、御師、式年遷宮、おかげまいりなど、伊勢神宮のあまり知られていない秘密を探ります。 |
志摩(#39) | イセエビ、あわび、かつお節、真珠などを育む、志摩海岸の秘密とは? |
愛知でブラタモリ | 内容 |
😎現地取材 名古屋(#75,#76,#90) | 舌の付け根が名古屋城で舌の先が熱田神宮で、左に堀川? |
😎見逃した方はこちらから
ブラタモリ日本の温泉 | ブラタモリ過去の放送回一覧 | タモリさん、オールナイトニッポンSP |
坂タモリ出版 推奨の坂は?(第8位で紹介) | 史上最大の反響「ブラタモリフォッサマグナ」 | ブラタモリ公式サイト |
ブラタモリ「奇跡の編集力」 | ブラタモリ書籍一覧 | タモリさんが監修!カレーうどん千吉 |
😎過去回ロケ地 完全収録
ブラタモリが、長岡→燕・三条→新潟市を、信濃川なしには語れない地域としてまとめてくれそう!😎
— ブラタモリ (@buratamori2018) August 27, 2023
漏れる糸魚川、上越、村上などは北前船航路でカバー🚣♂️
信濃川、北前船で理解しやすく全県を売り出せば、まだまだ観光客は来そう!
動画は十日町市に信濃川が作った河岸段丘で、このエリアもカバー。 pic.twitter.com/pFJF4tlKW3
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