【ブラタモリ会津(若松城) 全ロケ地】戊辰戦争を勇敢に戦った会津人はアイデアマン? #43

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NHK番組のブラタモリ会津編で、タモリさんが会津(福島県)を訪ね、地形や歴史を軸に土地の魅力を紹介しました。このページでは、全内容・ルートを写真でまとめて紹介します!

磐梯山と五色沼は別ページ(会津磐梯山編)となります。

福島でブラタモリ概要
会津磐梯山編(#44) ブラタモリは、五色沼を生んだ、火山の巨大なメカニズムに迫ります。色がそれぞれ異なる理由も、明らかに。
😎現地取材 会津編( #43)武骨・正義感のイメージの会津人は、実はアイデアマン? ブラタモリは、会津城や城下町から、アプローチ。

若松城(鶴ケ城)意外な会津人の性格とは?|ブラタモリ会津

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ブラタモリは、若松城(鶴ヶ城)を訪ねます。まず石垣を見て、すぐに天守閣に登ります。

石垣
  • アクセス 会津若松駅バスで10分程度
上図(若松城内)には、戊辰戦争の展開として、鳥羽伏見・甲州・宇都宮・白河・上野・北越・二本松に続き、会津戦争が掲載されている。

若松城(鶴ヶ城)は、明治に入る前の新旧政権戦争である「戊辰戦争」の主要な舞台の1つとなりました。明治7年、江戸期の文化を軽視する風潮のなか、若松城は士族の反乱の精神的な拠り所ともなりかねず取り壊されました。

その後、石垣と堀だけが残され荒れ果てていましたが、昭和40年に会津の人々の悲願がかない復元されました。

ブラタモリ会津編のテーマは、会津人はアイデアマン?です。

会津藩は、その後旧政権となった幕府側につきます。

現在もその名が知られる会津藩の白虎隊は、まだ16~17歳の予備兵でした。戦いが劣勢となり駆り出された白虎隊は、一時退却し飯盛山に逃げ込みます。猪苗代湖の水を、会津地方に引くため掘られた戸ノ口堰洞穴とのぐちせきどうけつをくぐり、山を登ると、黒煙を上げる鶴ヶ城が見え、白虎隊の悲劇につながってゆきます。

さて、会津藩士の子どもたちは、じゅうと呼ばれる集まりを作りました。「ならぬことはならぬものです」のフレーズで知られるのが、什の掟です。会津藩は、不利と分かっていても幕府側に立ち、筋を通したことで知られます。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
※什により多少異なります。

会津人は、戊辰戦争や什の掟から、一本筋が通ったというイメージを持たれています。しかし実際には、柔軟な発想を持つアイデアマンという一面もありました。

天守閣から見る会津盆地|ブラタモリ会津

ブラタモリは、会津城の天守閣に登ります。晴れていれば、磐梯山が見えます。

会津は、冷害をもたらす南東風である、やませの吹く先にありますが、米どころとして知られています。会津盆地の東側一帯に、磐梯山などを含む奥羽山脈があり、やませをブロックしていることがその要因です。

天守閣から東西に見る、会津盆地と山地の境は直線的になっています。

これは会津盆地が、断層と断層のあいだの土地が沈み込むことによって生成した「構造盆地」であることを示します。(なお、上の写真は東側で、写真の左すみの鉄塔の辺りが飯盛山です)

この写真も東側で、写真中央のタワーが、扇状地の「扇頂」にあたる会津東山温泉です。

会津城は、城主が目まぐるしく入れ替わったことが特徴です。
・会津の戦国大名・葦名家(1384年〜1589年)
・伊達正宗(1589年〜1590年) 
・蒲生家(1590年〜1598年)
・上杉景勝(1598年〜1601年) 
・蒲生家(1601年〜1627年)
・加藤家(1627年〜1643年)
・保科家、松平家(1643〜1686年)

若松城はなぜ会津盆地の中央でなく、南東の隅にあるのか?|ブラタモリ会津

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若松城は、広大な会津盆地の中央ではなく、南東の隅にあります(上の地図をアップにすると盆地の南東であることが分かります)。これは、なぜなのでしょうか?

ブラタモリは、若松城の東約2.5kmの場所にある、会津東山温泉を訪ねます。若松城の天守閣から見えた場所です。

道路が断崖絶壁に沿っています。

アクセス バス停「東山温泉駅」に到着後、道路を歩き少し戻る。

先を見ると平野になっていますので、ここは扇状地の扇の要の場所にあたります。扇頂(扇状地の頂上)と呼びます。

ブラタモリは、東山温泉の御宿東鳳を訪ねます。

会津若松を代表する、豪華なホテルです。いくつかある建物のうち、1番高いタワー館和室からは、会津盆地を一望できます。また、大浴場からも、会津盆地が一望できます。

ブラタモリでは、レストランから、扇状地の形状を確認します。

地形を観察すると、扇頂(扇状地の頂上)に位置していることが分かります。高い南東にある東山温泉から、低い北西に流れるのが湯川です。湯川が作った扇状地は、もともと高い南東をさらに高くしてゆきました。

若松城を会津盆地の南東の隅においた理由は、会津盆地全体を、見事に俯瞰ふかんできることだったのです。ほかにも、米どころ会津においては、水源の上流を押さえることで支配権を持つという狙いもありました。

城下町に若松城の面影を追う|ブラタモリ会津

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ブラタモリは、会津若松の町なかに、城下町の痕跡を求めます。

会津若松駅と若松城の中間地点付近に、その名も外堀ビルがあります。会津若松駅から徒歩20分、若松城まで徒歩15分です。ブラタモリは、外堀ビルの裏手に回ります。

写真の道が、かつての外堀が流れていた場所です。

ブロック塀が、堀の形をしっかりと記憶していました。

ブラタモリのルート

  1. (地図右下)外堀ビルをの裏手に回り、■■■外堀の跡を歩きます。
  2. 若松城甲賀町口門跡に移動します。さらに南へ歩くと、道が付近でS字にカーブしていることが確認できます。
  3. (地図左上)付近で特別なクランクを見学します。
若松城甲賀町口門跡から武家屋敷側(若松城側)を見る

ブラタモリは、若松城甲賀町口門跡に移動します。

若松城甲賀町口門跡から町屋側(会津若松駅側)を見る

若松城甲賀町口門は、若松城の正面に向かう門だった場所です。お城側の武家屋敷と、町屋の境目の場所となります。城下に16あった郭門のなか、唯一現存する遺跡です。

外堀(今は埋め立てられた)の右が武家屋敷や若松城。左が町屋。

地図の「甲賀町口」とある場所が、現在の若松城甲賀町口門跡。外堀ビルのある場所は、地図から外れる(甲賀町口の右上)。「竹藤」の場所には、町屋が残されている。「大町札辻」は、ブラタモリが特殊なクランクとして紹介(下記)。

若松城甲賀町口門跡の南にあるS字カーブは、敵に城を見通せないようにする工夫です。南に若松城を見ます。

北にS字カーブが見えます。戊辰戦争の激戦区となった場所です。

《おすすめルート》会津若松駅10:05🚌(広田タクシーエコろん号・富士の湯行)10:13大松屋…📷外堀ビル(目印は穴澤病院)…10:18📷外堀の跡10:23…10:26📷若松城甲賀町口門跡10:31…10:32📷S字カーブ10:37…10:45📷特殊なクランク…野口英世青春館前🚌11:15(会津バス ハイカラさん)11:22鶴ヶ城入口

一方、地図の付近のクランクは、会津城に向いていない特殊なクランクです。

ブラタモリ
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目隠しの機能でないとすれば、どのような機能なのでしょうか?

これは、上の地図の「A」から「B」方向、すなわち南東から北西へ傾斜にそって水を流すさいに、クランクに水をぶつけることで北側(の方向、写真では車両通行止めの標識のある道の方向)にも水を流すためのものでした。

同種のクランクはほかにもあり、町が北へ発展する原動力になりました。安土桃山時代に作られました。

「特殊なクランク」と若松城甲賀町口門跡を移動する途中にある竹藤は、町屋を再生した喫茶室です。町屋の雰囲気が存分に残されており、おすすめです(ブラタモリでの紹介はなし)。

川の水不足を解消した秘策とは?|ブラタモリ会津

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江戸時代になると町は発展し新田開発も進み、川の水が不足しました。会津の人はどのような策を講じたのでしょうか?

山むこうの猪苗代湖から、全長31キロの戸ノ口用水を引く工事に成功したのです。完成には、70年もかかりました(17世紀)。

ブラタモリは、戸ノ口用水を訪ねます。戸ノ口用水は、原則として山の形に沿って作られました。

しかし、写真の草むらの先にある、約2キロの区間だけは、地質が100万年前の火砕流でもろく、カーブを描くと将来形が崩れてしまうため、切り通しとしました。これも、会津人の工夫です。

アクセス 会津若松市立一箕中学校東側の山間部=切り通しへの立ち入りは不可

このほかに、会津人のアイデアとして、会津歌農書うたのうしょがあります。

きふりだね 植えて六一日の 日かづつもれば はなひらきけり
(訳)きゅうりの種は、植えて61の日数が経てば花が開く。
かたつぶり 夜ハはい出て 瓜茄子の 苗の若葉を くひらかす也
(訳)かたつむりは夜に這い出てきて、瓜や茄子の若葉を食い散らかすのだ。

会津歌農書には、1700もの歌があります。書物を読むことができなくても、農作業に取り組める工夫でした。

飯盛山へ|ブラタモリ会津

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ブラタモリは、白虎隊の最期の地となった飯盛山を訪ねます。当時、白虎隊が炎上を見た、若松城が見えます。

会津さざえ堂は、らせん階段を登って降りてこられる、二重螺旋らせん構造です。悲劇の70年前に建てられました。

かつては、当時流行した、西国三十三観音(近畿、岐阜)の巡礼を模すことができ、賽銭入れも33ヶ所ありました。投入された賽銭は「集中賽銭採集装置」(タモリさん命名)を通じて1か所に落ちてきます。これも、会津人の工夫です。(現在は観音は鎮座しませんが、賽銭を入れてゆく観光客もいます)

これは、会津からほかの藩へのお金の流出を防ぐ工夫だったともされています。

全国の主なさざえ堂

  • 旧正宗寺三匝堂(会津若松市)
  • 曹源寺本堂(群馬県太田市)
  • 大鹿山長禅寺三世堂(茨城県取手市)
  • 禅林街の栄螺堂(弘前市)
  • 總持寺三匝堂(足立区)
  • 成身院百体観音堂(埼玉県本庄市)

※大正大学 すがも鴨台観音堂(豊島区)=現代建築
※夢かなうぶんぶん堂(大分市)=現代建築

【まとめ】ブラタモリ会津 会津人は柔軟な発想を持つアイデアマン

ブラタモリ
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会津人は柔軟な発想を持つアイデアマンだったのです。

  • 扇頂(扇状地の頂上)に若松城を建て、監視と水利を図った。
  • 城下町には防衛のほか、水利のためのクランクがあり、町を北へ広げた。
  • 離れた猪苗代湖から、地質に合わせた形状を工夫し、用水を引いた。
  • 会津歌農書は、読み書きの知識に関係なく、農業の技術を広めた。
  • 会津さざえ堂は、西国三十三観音を1度に巡礼でき、集中賽銭採集装置が設置された。
福島でブラタモリ概要
会津磐梯山編(#44) ブラタモリは、五色沼を生んだ、火山の巨大なメカニズムに迫ります。色がそれぞれ異なる理由も、明らかに。
😎現地取材 会津編( #43)武骨・正義感のイメージの会津人は、実はアイデアマン? ブラタモリは、会津城や城下町から、アプローチ。

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