【ブラタモリ対馬】ロケ地一覧と再放送|タモリさんが国境の島を探る#218

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ブラタモリ対馬編で、タモリさんが対馬を訪ね、地形や遺物から、国境の島の波乱万丈の歴史を探りました。ロケ地、内容、関連情報をくわしくご紹介します。【再放送・見逃し情報はこちら

長崎でブラタモリ内容
対馬(#218)タモリさんが対馬を訪ね、地形や遺物から、国境の島の波乱万丈の歴史を探りました。
島原・天草(#160)潜伏キリシタンと島原・天草一揆。林田アナ卒業の言葉。
長崎(#1,#2)明治以降の“長崎近代化のカギは海にあり”という視点から、長崎の歴史を見つめます。

対馬とは?

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対馬は長崎県に属し、九州と韓国の間にある島です。韓国展望からは、文字通り韓国を望むことができます。

ブラタモリは韓国展望所を訪ねます。韓国の釜山を望むことから、韓国風デザインで作られています。釜山のビル群が見え、花火大会が肉眼で確認できることもあります。

タモリさんは、かつてアナゴを食べるためだけに対馬を訪ねたことがあります。海の幸に加え、ツシマヤマネコも知られています。

※ツシマヤマネコ 対馬だけに生息する野生のネコ。約10万年前、陸続きだった大陸から渡ってきたと考えられ、 ベンガルヤマネコの亜種とされています。1971年に国の天然記念物に指定。

対馬から朝鮮半島までは、わずか50km。島の長さは82kmもあります。歴史の節目ごとに国境の島が果たしてきた役割を、タモリさんが解き明かします。

福岡に住んでいたタモリさんは、ラジオで韓国語の放送を聞き、モノマネに生かしています。

釜山の山影を望む

旅のお題は、「日本史最前線!国境の島が果たした役割とは?」です。

魏志倭人伝は、約1800年前の日本について記した、中国の歴史書。海を渡って初めての海外の地として、対馬国が登場します。対馬は、国境の島だったのです。

魏志倭人伝の世界を鮮やかによみがえらせる謎の石の正体とは?|ブラタモリ対馬

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ブラタモリは、三根集落を訪ねます。(地図

深い入り江は非常に穏やかで、一見して海には見えません。入り江を囲むように家が建つのが、対馬の基本的な風景です。

宮内庁ホームページ

三根には、魏志倭人伝に書かれた、対馬国の中心の集落があったと考えられています。

魏志倭人伝には、「山は険しく森は深い、道は獣道のように細い、家は千戸ほどある、水田は少なく海産物を食べて、南北(九州や朝鮮半島)に航行して交易を行っている」というような内容が残されています。(上の写真の左ページ2行目)

対馬は、島の90%を山地が占めているのです。

ブラタモリは、海から少し離れ、川の上流の集落を訪ねます。写真に小さく映ったお寺の左手で、弥生時代の大規模な集落跡が、最近見つかったばかりです。(地図

1万点以上の土器や、製鉄の痕跡と思われる鉄くずも出土しています。ここには、大陸と交易ができる有力者が住む、対馬国の中心ではないかと考えられています。

タモリさんは、船のともづなをつなぐ石を発見します。魏志倭人伝の時代、現在の内陸まで海が達していました。山に囲まれ、波風を防ぐことができる、絶好の港だったと考えられます。

※石は中世のものと考えられています。

現在よりもさらに狭く、水田が少なかった対馬は、交易で生き抜くしかなかったのです。

リアス海岸に守られた風待ち湾にタモリも思わず「きれいよのぉ~」|ブラタモリ対馬

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ブラタモリは、対馬の中央にある浅茅あそう湾を展望できる烏帽子岳展望所を訪ねます。(地図

浅茅湾は、美しいリアス海岸で知られています。入り江の奥には、波が穏やかで住みやすい集落があり、その数は20以上。

真珠や、ホタテに似たヒオウギ貝(写真)の養殖などが行われ、浅茅湾がないと生きてゆくのは難しいと、対馬では言われています。

なぜ島の奥深くまでリアス海岸が広がっているのかは、諸説ありますが、リアス海岸としては屈指の存在です。

遣唐使気分!東の入江から西へ向かった一行が目にした驚きの光景!?|ブラタモリ対馬

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ブラタモリは、小船越を訪ねます(地図)。島の東にあり、九州へ向かうことができる場所です。

漁船を見たタモリさんは、イカが吐いた墨を見つけます。

イカスミとタコスミの違いをタモリさんは説明。イカスミは、味がよく、敵を引きつけている間に逃げることができるという説を披露します(タコスミは、単なる煙幕効果)。この説は、番組では「タモリ説?」とされましたが、つくば科学万博記念財団によると、正しい説明のようです。

イカスミタコスミ
料理への使用×
味のよさ
味で敵の目をそらす×
煙幕効果△(粘性が高い)〇(粘性が低く広がりやすい)

タコスミの味については、「アミノ酸は豊富で、味自体は変わらないかそれ以上」という説と、「味が落ちる」という説(NHKラジオ)に分かれています。そのため、「タモリ説?」と表示されたのかも知れません。

タコスミパスタはできる?

野菜やタレなどを使い、イカスミパスタとそん色のない料理になりますが、タコはそもそも内臓を取り除かれた輸入品が多く、新鮮なタコが手に入ったとしても、スミを取り出すのに時間がかかるため、非常に高額(1万円前後)のパスタとなるようです。また、粘性が低いため、料理しづらい面もあるようです。

「イカスミは、まるで水あめのように粘性が高いため、海水中でもうま味成分が凝縮しやすく、敵が夢中になりすい」と言ったところが、落としどころかも知れません(当ブログの説です)。

さて、この場所、小船越は、遣唐使(飛鳥時代~平安時代)が立ち寄った場所と考えられています。

なぜ南北に長い対馬の、この場所が選ばれたのでしょうか? ヒントとなるのは「船越」のネーミング。船が越すと書きます。

小船越を離れて内陸へ歩くと、船が浮かんだ場所があります。

川のように見えますが、海の一部であり、すぐ先は浅茅湾です。その距離はわずか200m。小さな船は、陸に上げて200mを運んだと考えられます。大きな船は、操舵に携わる人以外を降ろしう回したか、別の船を待たせておいたと考えられます。

(参考)1671年に大船越瀬戸が掘削され、船で通過できるようになりました。1900年に、より広く浅い万関瀬戸を海軍が掘削しました。

小船越は、遣唐使のルートと考えられています。ブラタモリは、ミルフィーユ状の堆積岩を見学しながら、小舟で浅茅あそう湾へ向かいます。船上からは、浅茅あさじ山を見ることができます。浅茅山は、万葉集にも歌われています。

百船の泊つる対馬の浅茅山 しぐれの雨にもみたひにけり
(数多くの船が停泊する対馬の浅茅山は、しぐれの雨にすっかり紅葉してきた)

数多くの船が、風雨を避け、ここで風待ちをしていたと考えられます。対馬から朝鮮半島への航路は難所。浅茅湾は安全な場所で、遣唐使の不安をやわらげ、航海を続けようと思わせる役目もあったと考えられます。

一転、険しい山道を登ると突如現れる巨大な石塁!いま日本史のどこらへん?|ブラタモリ対馬

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ブラタモリは、浅茅湾を船で進み、湾の南側の山に向かいます。

対馬には、ミルフィーユ状の堆積岩が多く見られますが、湾の南側の山の周辺は、岩石が異なるようです。

石英斑岩が見られます。これは、マグマが地下の浅いところで冷え固まった、石英分の多い岩石です。この、石英斑岩からなる山が、対馬の歴史に大きな影響を与えたというのは、どういうことでしょうか?

石英は、光を当てると、光を透過し白く輝く岩石で、白っぽい色合いをもたらします。このような岩石は、富山・糸魚川周辺で拾うことができます。下のページの「秘境・糸魚川と日本海のヒスイ(宝石)探し」をご覧ください。

関東周辺2泊3日ずらし旅・温泉10選|モデルコース

ブラタモリは、大吉戸神社のわきを抜け、険しい山のなかの道を歩きます。(地図

アクセス 厳原🚌(路線バス)鶏知宮前🚌箕形…(徒歩)…金田城・城戸登山口…(徒歩)…金田城跡…大吉戸神社 (登山コースとなるためご注意ください。通常クルマが便利かと思います)
※2022年10月現在、県道24号線から登山口までの舗装道路で陥没が発見(バス通行禁止)

山中には石塁が! これは何のために作られたのでしょうか?

これは、金田城の跡。石塁は、浅茅湾に突き出た半島を囲むように、作られていました。白村江の戦い(663年)は、倭・百済の連合軍が、唐・新羅に大敗した戦い。

これを契機に、西日本の防衛力強化が急がれました。

同様に、対馬も防衛機能を高めました。白村江の戦いのわずか4年後、金田城が築城されました。

山中には、焼き物のかけらが見つかります。これは、約1300年前、防人が使っていた武器の痕跡です。

防人が使っていたものは、もう1つあります。丸い石が、多数見られますが、これは敵の襲来時に、上から落とすための石です。防人が扱っていたものを、今でも触ることができる貴重な場です。

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通常、外洋に面した場所に防衛拠点は作られます。なぜ、浅茅湾の奥深くのこの場所に、金田城が作られたのでしょうか? 

それは、この場所が、石材として活用しやすい石英斑岩を採取することができる、対馬では貴重な場所だったのです。

ブラタモリは、石垣の痕跡に沿って歩きます。大量の石が残され、当時の工事の困難を思い描くことができます。

ブラタモリ対馬編は後編に続きます。

佐須地域|ブラタモリ対馬

長崎県観光連盟
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対馬の南西にある佐須地域は、国境の島ゆえの、大事件が起きた場所です(地図)。

のどかな田園ですが、石きの屋根が特徴です。ブラタモリは、倉庫を見学します。石葺き屋根には、対馬に多く見られ手に入りやすい、ミルフィーユ状の堆積岩が使われています。

対馬独特の風景ですが、残されている地域は少なくなっています。

長崎県観光連盟

ブラタモリは、小茂田浜を訪ねます(地図)。鎌倉時代の、歴史的大事件の舞台となった場所です。ここは、元寇で、初めて敵(モンゴル・高麗連合軍)が襲来した舞台です。

宗右馬允助(資)国(=宗資国そうすけくに)ら80余騎が、3万人の敵に対し、防戦に臨みました。宗資国は、戦いの当時、60歳を超えていたと伝わります。

GoogleMapを加工

「ひじきだん」と呼ばれる場所が、宗資国が陣を構えた場所。山が低くなっている場所が「だん」にあたり、図の赤丸付近が、ひじきだんと考えられています。当時は、海が内陸まで広がっており、現在の山地となっている場所が、海に面していたはずです。

タモリさんは、ひじきだんと思われる山を登り訪ねてみます。海が見えます。750年前の元寇のさいには、450そうもの軍船が乗り付けていたはず!

全員が討ち死にしましたが、子孫は、600年もの間、対馬を治めました。

金石城と清水山城|ブラタモリ対馬

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ブラタモリは、朝鮮出兵(安土桃山時代)と関わりがあるという、厳原いずはら町のある場所を訪ねます。

まず金石城の櫓門を訪ねますが、本命は、そこから見える清水山城です。

清水山城(三之丸)へは、案内人の1人が登ります。豊臣秀吉が、宗氏に築かせたものです。ふもとのタモリさんへライブ中継となりました。敵の来襲の様子がよく見える、戦略上の要所です。

秀吉は、朝鮮出兵を行い、国交は断絶。対馬を介した交易は停止し、対馬は存亡の危機を迎えます。

朝鮮出兵の後、朝鮮側は国交回復の条件として、国書を先に出し、非を認めるように求めます。徳川家康は、朝鮮出兵は豊臣の問題だとして、それを拒否。すると、宗氏(宗義成)は、国書を偽造したうえに、その返書も返事と分からないように修正(奉復の文字を書き換え)。

内部告発でこの将軍家を騙すという、大ばくちとしての「試み」は、幕府の知るところとなります。しかし、徳川家(家光)の下した判決は、おとがめはなし。対朝鮮を考慮すると、宗氏の存在に頼らざるを得なかったのです。

宗氏の働きもあり、朝鮮通信使が、12回も日本を訪ねることになりました。朝鮮通信使が歩いた、厳原いずはらの町は、どのように見えたのでしょうか?

大きな石と小さな石を組み合わせた石垣が続きます。(地図

朝鮮通信使は「左右の民家が壮麗」「池が美しく贅沢だ」といった記録を残しています。これは、日本の入口となった厳原の城下町を整備し、日本の印象を良くしたいという思いがありました。

ブラタモリは、渡辺菓子舗(かすまきが名物)を訪ねます。

裏手が石切り場となっています。石を切り出すときに空けた、矢穴が残っています。この岩は、対馬には珍しい石英斑岩。切り出したばかりのときは、白い色が特徴。美しい町づくりに生かされました。

石英は、光を当てると、光を透過し白く輝く岩石で、白っぽい色合いをもたらします。このような岩石は、富山・糸魚川周辺で拾うことができます。下のページの「秘境・糸魚川と日本海のヒスイ(宝石)探し」をご覧ください。

関東周辺2泊3日ずらし旅・温泉10選|モデルコース

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