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ブラタモリのまとめ

【倉敷】ブラタモリ紹介の歴史・地形観光スポットまとめ…2017.6.03

2017/06/04

NHK番組のブラタモリで、倉敷の歴史や地形を踏まえた観光スポットが紹介されました。旅行の備忘録や教養のためにぜひご利用ください。

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倉敷とは/ブラタモリ倉敷

岡山県倉敷は、蔵の町でもあり、同時に美しい洋館でも知られます。倉敷のこの美しい町並みは、どのように生まれ、なぜ現在まで守られているのでしょうか?

美観地区/ブラタモリ倉敷

ブラタモリは、倉敷の美観地区からスタート。タモリさんは、くらしき川舟流し(500円)に乗り、美観地区を往復します。

  • ●印:倉敷美観地区 … 倉敷駅から徒歩15分。
  • くらしき川舟流し … 9:30〜17:00、30分毎。祝日除く第2月曜日運休。12月〜2月は、平日運休。年末年始は、全面運休。
  • ●印:古い橋の跡
  • ●印:森田酒造

倉敷美観地区に集中する、白い壁の蔵は、なまこ壁が特徴で、江戸時代のもの。大正期に建てられた建物も混在します。倉敷には、町の中心部に、江戸から明治・大正にかけての古い建物が、500以上も残されています。

なまこ壁

  • 蔵に見られる、黒と白の幾何学模様。
  • 壁面に平瓦を並べて貼り、目地に漆喰をかまぼこ型に高く盛り上げて塗る工法。

倉敷には、なぜ江戸時代の蔵が、多く残されているのでしょうか? タモリさんが疑問に思ったのは、空襲のこと。倉敷は、空襲を受けずに済んだのです。

倉敷が空襲を受けなかった理由は?(諸説あり)

  • 説1:倉敷の大原美術館に、エル・グレコの「受胎告知」、モネの「睡蓮」ほか、多くの西洋の芸術作品が存在したから。
  • 説2:京都と並び、文化都市に空襲を行うことで、日本人の反米感情を長期的に高めることは、得策ではなかったから。
  • 説3:倉敷の空襲計画は存在したが(目標情報票・Target Information Sheet)、終戦を迎え実行されなかったから。

辞書によると、「倉敷」のもともとの意味は、年貢を一時保管する倉庫。物資が多く集まる場所を、倉敷地と呼んでいたのです。美観地区の中心を流れる、運河は、物流の要となっていました。

ブラタモリは、倉敷川から分かれ、暗渠になっている川の支流をたどります。途中かつての橋の跡を経ますが、最終的には暗渠は埋め立てられています。

そして、現存する豪商の屋敷である、森田酒造場を見学します(一般非公開)。地図によると、かつては川の支流が敷地内を貫いていましたが、いまは埋め立てられています。2階の窓から外を見ると、奥行き100mの敷地に、大きな蔵が5つも配置されていました。ブラタモリは、蔵のなかで、虎が描かれた、貴重な金の屏風を発見します。先代が、京都で購入したものとのこと。森田家は、どのようにしてこれまでの財を築いたのでしょうか?

森田家は、主には畳表を扱っていましたが、米の流通を担うことによる稼ぎの方が大きかったようです。米を扱うことができたのは、地主を兼ねていたから。倉敷では、豪商の多くが、地主を兼ねていたのです。ブラタモリは、倉敷の豪商が、地主を兼ねていた理由を探るために、鶴形山に登ります。

鶴形山/ブラタモリ倉敷

  • ●印:森田酒造
  • ●印:鶴形山公園(阿智神社)

ブラタモリは、139段の階段を上がり、鶴形山の頂上(阿智神社)に登ります。

写真:阿智神社

現在の倉敷は、海側にも山地が広がる、山地に囲まれた平野です。しかし、戦国時代以前、平地の大半は遠浅の海だったのです。干拓による新田開発で、徐々に土地を広げてきた歴史があります。

新田開発を進めたのは、当時のお金持ち。さらに財を成し、地主を兼ねた豪商となっていきました。では、なぜ、商人たちは自由に新田を開発できたのでしょうか?

紡績工場/ブラタモリ倉敷

ブラタモリは、倉敷の名所のひとつである、紡績工場に向かいます。工場の敷地内には、倉敷発展の秘密が隠されています。江戸時代には、紡績に関係のない、ある施設があったのです。

紡績工場内のブラタモリルート

鶴形山公園の南。紡績工場敷地の南西のA地点から、工場の敷地に沿って北へ(かつては堀だった道)。途中大原美術館児島虎次郎記念館の南に、石碑がある。B地点は、現在アイビー学館と呼ばれる紡績工場跡(明治22年設立)。

※アイビー学館(紡績工場跡):入場料350円。9時~17時。

タモリさんは、児島虎次郎記念館の南で、小さな看板に気づきます。かつて紡績工場内には、代官所が立地していたのです。代官所跡であることを示す、石碑も存在します。

江戸時代、倉敷は幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていました。武士の数が少なく、商人に権限を与え、商人の協力態勢を得て、領地の支配を固める方法が取られていました。倉敷の代官所は、商人に新田開発を認めていました。

代官見立新田(だいかんみたてしんでん)

江戸時代に幕領(幕府直轄領)の代官が、新田に合った土地を見立て、開発させた新田。成功した場合には、年貢の10分の1が代官に支給されました。

なぜ、新田開発と米の流通でうるおった倉敷に、紡績工場が作られたのでしょうか?

もとは遠浅の海だった、塩分を含む倉敷の新田には、塩を吸収する綿花が植えられるのが常だったのです。紡績工場は、綿花を原料に糸を作ります。

出典:公益社団法人倉敷観光コンベンションビューロー

ブラタモリは、アイビー学館(旧紡績工場)の内部に移動します。レンガは、縦横を変え、交互に配置するイギリス式。工場のノコギリ屋根も、イギリス式です。

しかし、倉敷とイギリスは緯度が違うため、夏至の前後には、太陽が直接さし込んでしまいます。この対策として、アイビー(つた)を這わせ、工場内の温度を下げるようにしました。現在は、人気の観光スポットです。

大原美術館/ブラタモリ倉敷

白い蔵の町並み、鶴形山、紡績工場(代官所跡)をまわり、倉敷の歴史や地理を学んできたブラタモリは、美観地区に戻り、洋館の大原美術館、大原美術館別館を訪ねます。白い蔵と並び、倉敷の魅力を形作るのは、古い洋館です。なぜ倉敷に、古い洋館が建てられたのでしょうか。

大原美術館

倉敷を基盤に活躍した事業家大原孫三郎が、昭和5年に財を地域に還元する形で設立した、日本初の西洋美術を中心とした私立美術館。

明治以降、紡績業を背景に発展した倉敷の町には、西洋建築が立ち並びました。大原美術館は、ギリシャ式の建築が特徴です。

一方、大原美術館分館(1961年完成)は、城郭のようなデザインが特徴です。この城郭は、倉敷の古い町並みの南西の隅にあります。

高度経済成長期の日本では、全国で、古い建物は開発の邪魔になると、取り壊されていました。しかし、倉敷では、古い町並みを守ってゆこうという機運が生まれます。町並みを守る条例も作られました。美観地区の南西の端に位置する大原美術館分館の「城壁」は、新しい波から古い町並みを守るような配置にも感じられるのです。

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