
ブラタモリ静岡市編で、タモリさんが静岡市を訪ね、徳川家康が人生で3度も住んだ静岡市や駿府城を探りました。
ロケ地、内容、関連情報をくわしくご紹介します。
😎大井川 (#225)トロッコで湖上駅へ | 😎静岡市 (#224)駿府城は今川の痕跡も | 😎伊東 (#208)なぜ人気温泉地に? |
😎浜松 (#153)楽器の街と浜松城 | 😎浜名湖 (#152)なぜウナギがおいしい? | 😎下田 (#107)ペリーが残した和洋折衷 |
😎天城越え (#104,105)温泉から旧天城峠へ | 😎三保松原・久能山 (2018年新春SP)徳川家康ゆかり | 😎熱海 (#27)歴史を重ねた温泉街 |
富士山 (#19,20,21)宝永火口とは? |
😎マークは、現地取材済みです。
VIPルームが格安で泊まれる公共の宿
3度駿府に住んだ家康


徳川家康は、幼少時、40代、晩年の3度に渡り駿府を住居としています。
ブラタモリ静岡市編は、大河ドラマ「どうする家康」開始(2023年1月)の直前のタイミング(2022年12月)に放映されました。
「どうする家康」の第1話で扱われたのは、幼少期に、戦国大名・今川義元の人質として、駿府に住んでいた頃の出来事です。
マツコが「泊まりたい」と2度発言した宿(露天風呂がお目当て)
大河ドラマ「どうする家康」の初期の展開
戦国時代に生まれた家康[松本潤]。生まれ故郷の三河(岡崎)は、西に織田信秀(信長の父)、東に今川義元という強豪に挟まれた小国でした。その力関係から幼少期の家康は、今川義元の人質として駿府の今川館に住まいます。
今川館では、今川家重臣の娘・瀬名[有村架純]と恋仲に。今川義元は恋敵であった息子・今川氏真[溝端淳平]と武道で勝負するように命じます。このときまで氏真に勝ったことのなかった家康は、気遣うことはせず大逆転勝利。無事結婚式を挙げます。
駿府(静岡)の今川義元は、三河を飛び越え織田領の尾張に進軍します(桶狭間の戦い)。家康は拠点の1つ大高城の援護を命じられます。家康の配下の三河の武士たちは、捨て駒ではないかと不満を口にします。しかし危険を顧みず、今川義元は陣地を訪ね、家康にわが息子と思う印として特別な鎧や兜を授けます。
ところが武運尽きた今川義元は戦死。家康は、三河に戻ります。
※家康の名前は、松平竹千代→松平元信(14歳)→松平元康(結婚)と変遷しますが、ここでは「家康」と呼びます。
静岡市と駿府城公園|ブラタモリ静岡市


ブラタモリは、静岡市を訪ねます。静岡県の中部に位置する人口約68万人の大都市で、浜松とともに全国5位の都市圏を形成しています。

ブラタモリは、駿府城(駿府城公園)からスタートします。
かつては駿府と呼ばれ、徳川家康が、人生で最も長い時間(3回、合計25年)を過ごした土地としても知られています。
駿府は、駿河の国府(政治の中心)の略。駿河の国の中心となりますが、比較的地味な場所。なぜ家康はここを選んだのでしょうか? ブラタモリ静岡市編では、旅のお題「家康が愛した駿府ってどんな所?」を探ります。
古代から千年以上も地域の中心!駿府城の中途半端に見える立地の驚くべき秘密とは?


ブラタモリは、静岡駅から北へ徒歩約15分の場所にある、駿府城を訪ねます。

天守は残されていませんが、櫓(見張り台)や門は復元されており、城の全容がよく分かります。
家康は、少年時代(8〜19歳)、豊臣秀吉の家臣として5か国の戦国大名だった時代(45〜49歳)、そして江戸での政権を譲った後、晩年の時代(66〜75歳)、駿府に居を構えました。

駿府城内には、静岡名物のおでん屋さんも店を構えます。
【駿府城内にも】静岡駅周辺のおでん 一人や昼飲みが可能なおすすめ店
インクルーシブ(ドリンク、スイーツ、温泉スパなど無料)の欠点(高い、遠い、人が多く落ち着かない、客層に偏り)をクリア。全36室。
発掘!駿府城は江戸城より大きかった!


駿府城の天守台は、どのくらいの規模だったのでしょうか? タモリさんは、駿府城の発掘現場を訪ねます。
巨大城郭というと、江戸城や大阪城、名古屋城、熊本城がよく挙がります。

駿府城跡の盛り土(写真奥)手前のポールの高さは12m。これは石垣の高さを示し、マンションの4階建てにあたります。
発掘調査の結果、2018年に静岡市が発表した駿府城天守台は、西辺が約68m、北辺が約41m。駿府城の天守台の方が大サイズだったのです。
- 江戸城の天守台 45×41
- 駿府城の天守台 68×41
※写真奥の盛り土は、天守台があった場所に再現した訳ではないようです。

写真の手前と奥で、石垣の作り方が異なります。
奥は、徳川家康が40代に作ったお城の石垣(野面積み)。手前は晩年に大きく作り直したもの(打込み接ぎ)だったのです。

40代の方の城(天正期天守台)の出土は、発掘前には予想されておらず関係者を驚かせました。

さらに奥の天正期天守跡と同じ場所からは、今川義元が暮らした今川館の堀が発掘されました。

さらに、今川時代の金箔を貼ったかわらけ(お酒を飲む皿)が出土しています。かわらけは、使い捨てのもの。今川家が贅を尽くしていたことが分かります。「そんなことをやってから、今川に滅ぼされるんだよね!」(桶狭間の戦い)とタモリさん。
ただ近年の研究によると、今川義元の大軍が織田信長の少数の軍に敗れたという従来の説は、誤りの可能性があり、双方互角に近く時の運があったという見方も出てきました。その新しい史観は、大河ドラマ「どうする家康」の今川義元像に反映されています。
※さらに古代の国府もこの場所にあったと推定されます。
駿府城は、南に駿河湾、西に安倍川・大井川、北は山地、東には久能山や遠く箱根山があり、天然の要塞と言えます。
しかし、もう少し狭い範囲で見れば、駿府城の場所は、海や川から遠く、さらに山からも離れた中途半端な場所。なぜ、国府がここに作られ(推定)、今川氏や徳川家康も、この場所を選んだのでしょうか?
180度折れ曲がる奇跡の川を発見!

ブラタモリは、駿府城と安倍川の間にある、賎機山の西側を訪ねます(地図)。賎機山の先端には、静岡浅間神社があります。

左手が賤機山。歩道の下の水路(暗渠)を確認すると、水流は南(写真奥、静岡駅方向)に流れています。

暗渠を追うと、賎機山に沿って大きく曲がっています(地図)。カーブのすぐ先の静岡浅間神社(鳥居が見える)の手前で、川は開渠となります。

川は、北→南→東→北と、鋭角的な賎機山の裾野をなぞるように流れていました。
なぜ川は、ぐるりと180度曲がっているのでしょうか?
これは、賎機山の西を流れていたかつての安倍川が、自ら運んだ土砂に遮られ賎機山の東側に流れ込んだ時期の痕跡です。このとき賎機山の東側一帯に土砂がたまり、のちに駿府城が立つ高台となりました。
高台に立地するだけでなく賤機山が堤防となり、水害に強い駿府城のあった高台は1000年以上も政治の中心となったのです。
家康は究極のデベロッパー?税免除の秘策で町人誘致


ブラタモリは、決まり事を掲示する「札の辻」(石碑あり)だった場所を訪ねます。ここは城下町の中心でした(地図)。
周辺の道路は、すべて互いに直行しています。駿府城の南側は、碁盤の目となり、町人が住んでおり、町割りは今も残っているのです。
※タモリさんは、札の辻から旧東海道に沿って東へマクドナルド前まで歩きました。
そして町人地を囲むように、武家地が広がっています。町人も武士も、ほかから連れてきた人たちです。

伏見(山城国)から移住させた人が多いことの名残が、ふしみやです(地図)。
ほかには、となりの遠江国、甲斐の国から人を集めていました。ふしみやに残る古文書を見ると、宅地税(現在の固定資産税)を子孫の代まで免除すると書かれています。
税免除の秘策で町人を誘致した徳川家康は、武将というより、まちづくりのデベロッパー(開発事業者)と呼んだ方が、ふさわしいかも知れません。

ブラタモリは、城下町の西側の地名に注目します。まず「金座町」の地名が、見つかります(地図)。

タモリさんは、日銀静岡支店、金座ビルを経て、金座稲荷神社まで歩きます(地図)。
金座稲荷神社は、古い絵図を見ると「後藤庄三郎屋敷」とあります。徳川家康のもとで慶長小判(金貨)の金細工をしていた人物です。ほかに銀座も駿府にはありました。金貨・銀貨は、江戸ではなく、駿府で鋳造されていたのです。
江戸の町づくりがまだ道半ばで、「大坂城」には宿敵がいた時代。江戸が首都になるかどうかまだわからない状況で、駿府に首都機能の一部が与えられたと考えられます。
家康の死後17年経つと、城主が不在となり、武士は江戸に移り武家は空き家となりました。しかし土地だけはその後200年、幕府が押さえていました。200年後に駿府にやってきたある有名な人物とは、誰だったのでしょう?
徳川慶喜、趣味三昧の楽園生活とは?|ブラタモリ静岡市


最後の将軍 徳川慶喜が大政奉還の後、20 年余りを過ごしたのも駿府の町でした。
駿府は、徳川家が江戸時代を通じて、徳川家にとって大切な場所として保持されてきました。そのため、将軍を退いた後の住まいに、ふさわしい場所でした。

現在は料亭の浮月楼(地図)がその場所です。日本庭園(写真右手)は、徳川慶喜の時代と似た配置で残されています。
徳川慶喜は、政治に目を向けないよう、趣味に没頭して晩年を謳歌しました。
街なかに謎の張りぼてビル?城と駅をつなげるメインストリートの秘密


ブラタモリは呉服町通りを訪ねます(地図)。異なるデザインのビルが、なぜかつながっています。いずれも4階建てです。

ブラタモリは、ネネチキン 静岡呉服町通り店(地図)の店内に入り、許可を得て4階へ上ります。すると4階の部分は屋根がなく、壁があり空が見える不思議な空間です。いずれの建物もこの構造で実は3階建て。なぜ4階建て風の概観なのでしょうか?
これは、防火ビルと呼ばれ防火壁を兼ねています。防火ビルは、静岡駅と古い城下町をつなぐ商店街(横につながったデパート)として作られ、新旧の町が一体化し発展してきたのです。
地元の人は、いまでも城下町へ行くことを「お町に行く」と表現しています。
😎大井川 (#225)トロッコで湖上駅へ | 😎静岡市 (#224)駿府城は今川の痕跡も | 😎伊東 (#208)なぜ人気温泉地に? |
😎浜松 (#153)楽器の街と浜松城 | 😎浜名湖 (#152)なぜウナギがおいしい? | 😎下田 (#107)ペリーが残した和洋折衷 |
😎天城越え (#104,105)温泉から旧天城峠へ | 😎三保松原・久能山 (2018年新春SP)徳川家康ゆかり | 😎熱海 (#27)歴史を重ねた温泉街 |
富士山 (#19,20,21)宝永火口とは? |
😎マークは、現地取材済みです。
コメントをどうぞ(情報ご提供、旅行相談など)