【ブラタモリ特番 東海道五十七次の全ロケ地】帰ってきたタモリさん、京街道を歩く#263

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ブラタモリのレギュラー終了後の特番、東海道五十七次(京街道)編で、タモリさんが、久々にブラタモリに帰ってきます。このページでは、ブラタモリ東海道五十七次編のロケ地(ルートや地図)をご紹介します。

実際のルート
・第1夜 三条大橋→(東海道を江戸方面へ戻る)→大津追分(髭茶屋追分、三差路)→(江戸への短絡路とも言える大津街道回り)→伏見(京橋…十石舟…御香宮神社…伏見駿河屋本店)
・第2夜 淀宿(淀駅周辺で市街地となっている)→京都競馬場(第3コーナー)→淀城の痕跡→石清水八幡宮(ケーブルカー…本殿…男山展望台)
・第3夜 枚方宿(枚方宿鍵屋資料館)→守口宿→大阪市内のある橋

東海道五十七次(京街道)とは?

ブラタモリ特番の行き先について、初回発表時には「京都から大阪へ街道を歩く」と伝えられました。

引用 日本経済新聞

京都から大阪(大坂)への街道と言えば、複数あった京街道。

特に東海道五十三次(江戸・日本橋~京都・三条大橋)の延長として伏見、淀(よど)、枚方(ひらかた)、守口の四つの宿場が設けられた京街道(大坂街道とも)はよく知られています。

現在では、江戸から大坂までを総称し、「東海道五十七次」と呼ぶこともあります(江戸時代にもその認識はあったという説もあり)。京を通らない短絡路に大津街道(伏見街道)があります。

第一夜 京都・三条大橋から伏見へ

引用 日本経済新聞

実際のルート 上の図で「京」と書かれた三条大橋→(東海道を江戸方面へ戻る)→大津追分(髭茶屋追分、三差路)→(江戸への短絡路とも言える大津街道回り)→伏見(京橋…十石舟…御香宮神社…伏見駿河屋本店)

ブラタモリは、京都・三条大橋からスタート。東海道五三次の終点です。

欄干の緑の部分は、豊臣時代のもの。写真左は、秀吉時代の石の柱を保存したものです(スターバックスの目の前です)。

三条大橋>>地下鉄京阪三条駅、京阪の三条駅からすぐ

歌川広重の東海道五十三次の絵図には、三条大橋に「大尾」の文字を添えています。この橋は、東海道五十三次の終点だったのです。

しかし、今回のテーマは「東海道五十七次」。江戸を出て大坂をゴールとする考え方です。

旅のお題(三夜通しのテーマ)は、「東海道“五十七次”の旅~行けばわかるさ 徳川の思惑~」です。幕府が東海道の大坂延伸に取り組んだのは、大坂夏の陣の翌年の1616年とされています。短絡路の大津街道(伏見街道)も近い時期に敷かれたと思われます。

もうひとつの東海道との分岐点で江戸時代に大ヒットした街道土産とは?タモリ絵師に挑戦!カワイすぎる鬼の絵が完成!?

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ブラタモリは、東海道を江戸方面に戻り、五十七次(京街道)への分かれ道、大津追分(髭茶屋追分)を訪ねます。タモリさん「いいな、この三差路」。

大津追分>>地図、京阪追分駅下車すぐ

「みぎハ(は)京みち」(東海道五十三次、京都方面)とあります。

左側面には「ひだりハふしミミち」とあり、伏見(五十七次、大坂方面)に至ることが記されています。

この分岐点で、江戸時代に大ヒットした街道土産とは何だったのでしょうか? 江戸初期に、仏師(仏像を専門に作る者)や仏画師が移住してきた場所です。何か関連があるのでしょうか?

この場所は大津絵発祥の地。

引用 龍谷大学

現在でも、大津絵の職人さんが活躍しています(高橋松山さんが登場)。大津絵は、安価でしたが、版画ではなく肉筆。入門したての職人でも書けるように、複数の型があり、型を筆でなぞると、徐々に鬼の絵が完成してゆきます。

タモリさんは、型を筆でなぞる工程の一部と、手書きで行う目入れを体験。職人さんが髪の毛を描くと完成です。大津絵の特徴は、鬼に猫のようなひげを生やすこと。これもタモリさんが担当しました。

引用 日本経済新聞

東海道五十七次の京街道部分(大津追分~伏見~大坂)の特徴は、大坂から江戸へ向かうときに、京を通らないこと。西国の武士と天皇の結託を恐れた、江戸幕府の意図がありました。

伏見の船旅で発見したのは豊臣秀吉の町づくりの痕跡。さらに徳川家康のハンパない伏見愛がわかる!誰もが知っているあの和スイーツは街道のおかげで広まった!?

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ブラタモリは伏見へ移動します。伏見稲荷大社や名水、酒造、伏見城で知られます。

引用 歴史街道

ブラタモリは「電気鉄道事業発祥の地 石碑」の辺りから南西へ歩き、京橋を訪ねます。

江戸時代にもかかっていた橋で、古い絵図には、川岸の荷揚げ場や宿が描かれています。京橋の周辺は、かつての伏見宿の中心だったエリアです。

京橋>>地図、中書島駅から徒歩6分

絵図を見ると、五十四番目の宿場町である伏見宿は、かなり巨大であることが分かります。タモリさんは上の地図の寺田屋付近の川側の道を訪ね、現在小倉山荘伏見店(和菓子屋、地図)になっている辺りが、江戸時代は広場状の広い道となっていたことを確かめます。水運で到着する大量の物資をさばいていたのです。

※ブラタモリでは、寺田屋の前で、通常の幅に戻った道を確認しています。なおこれは東海道ではなく、江戸時代の町割りから変わっていない道ということだと思われます

伏見宿は人口2万人を超え、東海道五十七次のなかでも最大級。なぜこのように巨大な宿場町に発展したのでしょうか?

その秘密は、伏見を流れる宇治川にあります。

スチール写真 山田大輔さん

タモリさんは、京橋から川沿いを歩き、船着き場(地図)から十石船に乗船します。

川を船で進むと、涼しさを感じます。船が伏見であい橋(地図)にたどり着くと、北側からまっすぐな川が流れてきます。これは人工的な川の跡、つまり伏見城(指月伏見城)の堀の跡です。

東海道五十七次(京街道)が通る前から秀吉の城があったため、伏見宿には発展の基盤があったのです。タモリさんは「居抜きの宿場町」と表現しています。

伏見城は、徳川家康が引き継いでいます。

研究者によると、晩年の25年間を見ると、後半(1607年~)は主に隠居先の駿府城に滞在しています。しかし前半(1592~1606年頃)は、江戸ではなく伏見がメイン。言いかえれば関ヶ原の戦い(1600年)の前後は、おおむね伏見に滞在していたのです。

関連>>ブラタモリ駿府ブラタモリ関ケ原

ブラタモリ伏見編では、秀吉が伏見城(伏見桃山城)のふもとに作った直線的な道が紹介されています。
【ブラタモリ京都伏見・全ロケ地】タモリさんが伏見城と秀吉の痕跡を探る #37

ブラタモリは、御香宮神社を訪ねます。徳川家康のハンパない伏見愛がわかるとは、どういうことでしょうか?

御香宮神社>>地図

門を入ってふり返ると、門の瓦の中央に徳川の家紋があります。徳川家康の三男・徳川頼房(水戸徳川家の祖)が寄進したものです。

さらに、家康の十男・徳川頼信(紀伊徳川家の祖)が寄進した建造物(屋根の中央に家紋あり)があります。家康の九男・徳川義直(尾張徳川家の祖)も、伏見で生まれたという説があります(諸説あり)。

徳川家康と伏見の深いつながりが分かります。これも、伏見の宿場町が栄えた理由です。

さて、誰もが知っているあの「和スイーツ」は京街道のおかげで広まったとは、どういうことでしょうか?

タモリさんは、8年前のブラタモリ伏見編でも訪ねた、伏見桃山駅前の「総本家駿河屋 伏見本舗」(写真)の分家(油掛駿河屋)にあたる「伏見駿河屋 本店」を訪ねます。

伏見駿河屋 本店>>地図

引用 歴史街道

分家にあたる「伏見駿河屋 本店」は、上の地図では、東海道五十七次(京街道)が曲がる、「電気事業発祥の地の石碑」のすぐそばにあります。街道を通じて羊羹(ようかん)を広めたお店です。

ようかんの元の形が、蒸しようかん。

あんに小麦粉など加えて作っており、日持ちはしませんが、今のようかんより柔らかく、素朴な味わいがあります。初めの頃は、手でこねて作っていたのではないかという説もあります。豊臣秀吉に献上され、高く評価されました。

残念ながら、伏見城で死去した秀吉の存命中には間に合いませんでしたが、江戸時代にあたる1658年、駿河屋は、蒸す代わりに炊き上げる(煮詰める)製法を開発。江戸時代の練り羊羹の誕生につながってゆきます。

こちらは、熱を加えて練る製法になり、さらに寒天を加えた練りようかん。

ゼリーのような少し固い食感となり、当時の人々にとって、新鮮な印象を与えたのではないでしょうか。同時に日持ちするようになり、この分家(伏見駿河屋 本店)を発端に、京街道(東海道五十七次)を通じて、全国に広まりました。

※当初の練りようかんは「紅」を使っていました。現在は別の材料ですが、当時の色に近いものです。

ブラタモリ伏見編では、ようかんや伏見の町を詳しく紹介しています。
【ブラタモリ京都伏見・全ロケ地】タモリさんが伏見城と秀吉の痕跡を探る #37

第二夜 京都競馬場と石清水八幡宮へ

実際のルート 淀宿(淀駅周辺で市街地となっている)→京都競馬場(第3コーナー)→淀城の痕跡→石清水八幡宮(ケーブルカー…本殿…男山展望台)

引用 日本経済新聞

ブラタモリは、京阪の淀駅を訪ねます。55番目の宿場町が淀宿です。伏見宿からは、わずか4キロの距離になります。なぜこんな近くに宿場を整備したのでしょうか?

ブラタモリは、淀駅前ローソン前に移動します。

向かいには京都競馬場が見えます。天皇賞春や菊花賞など、最高峰のレースが開催されます。

タモリさんが競走馬のシャワーや芝コースを見学し、地下馬道を通り馬場のまん中に行くと、池がありました。実はコースの内側に池があることは、実は競馬ファンにはよく知られています。

引用 国土交通省

地形的に見ると、京都盆地のなかでは低い場所(水が「よど」む場所)にあたり、すぐそばを宇治川、北を桂川、南を木津川が西へ流れています。すぐ東には今は幻の巨椋(おぐら)池が広がっていました。

上は明治期の地図。巨椋池は昭和初期まで残存していました。

スチール写真 山田大輔さん

タモリさんは、3コーナーの淀の坂を見学します。なぜ、ほかの競馬場と異なり、3コーナーが微高地になっているのでしょうか?

地図を見ると、微高地の場所には、堤防があったようです。

スチール写真 山田大輔さん

川の堤防に乗るような形で、3コーナーが作られました。この堤防を作ったのは豊臣秀吉。しかし、淀宿は、なぜか堤防の外に作られています。なぜなのでしょうか?

ブラタモリは、淀駅近くの城跡を訪ねます。

水に浮かぶ名城・淀城です。東海道は城のなかを通り(矢印)、宿場町は城内ともいえる場所(おおむね赤で囲った場所)にありました。

淀城跡>>京阪淀駅から徒歩すぐ

東海道を歩くと、おのずと水を制し水に浮かぶ淀城が見え、徳川の治水技術や土木技術を知ることになるのです。

ケーブルカーで向かった石清水八幡宮では国宝も。徳川だけでなく織田信長・豊臣秀吉も重要視した理由は“地形”にあった!?

ブラタモリは、淀城からも見える、石清水八幡宮を目指します。

ケーブルカーに乗車。

タモリさんは、ケーブルカーのすれ違いを見学。

2016年に石清水八幡宮本社10棟が、国宝に指定されました(本殿、摂社武内社本殿、瑞籬弊殿及び舞殿、楼門、東門、西門、回廊(3棟)/附 棟札三枚)。

現在の本社は、徳川家光が建造。徳川の家紋も隠されています。

スチール写真 山田大輔さん

タモリさんは、奉納された釣灯籠を見学。豊臣秀吉の名があり、秀吉から奉納されたものだと分かります。このほか、高価な金の雨どいは、織田信長からの奉納。

男山展望台を訪ねます。

向かい側にも尾根が迫り、狭い場所を3つの川が流れます。ここは、京都への重要な関門だったのです。この関門のすぐ東に、淀城やそれと一体となった淀宿が設定されました。

西国の勢力が攻め入ってきた時の防波堤が、淀城だったのです。

第三夜 ついにゴールの大阪へ!

実際のルート 枚方宿(枚方宿鍵屋資料館)→守口宿→高麗橋(大阪市)

枚方市駅

ブラタモリは枚方(ひらかた)宿を訪ねます。枚方橋の跡にまず立ち寄ります。

枚方駅近くの、東海道が折れる場所に立ち寄ります。

タモリさんは、枚方宿鍵屋資料館を訪ねます。江戸時代は宿屋を開いていました。

シャッターのように、上下に開く扉が特徴です。滑車と重りの効果で、指一本で開閉できます。

玄関の様子です。

ブラタモリは、2階の大広間を訪ねます。

川が目の前。江戸時代は、建物のすぐそばを川が流れていました。すぐそばに、鍵屋裏という船着き場がありました。

枚方宿は淀川の水運が便利すぎたために、旅人(特に大坂方面へ向かう客)にスルーされる傾向がありました。「並行する淀川舟運もよく使われたためか、4宿の認知度は低く、当時も五十三次の方が通りがよかった」(日本経済新聞)。

宿場の利用者が減った枚方宿はどのように、この窮地を脱したのでしょうか?

タモリさんは、川沿いで宴会を開いている絵図を確認します。景色もよさそうです。

船上で料理をしている様子。船旅をする人に、料理を売り込んでいたのです。これはくらわんか舟と呼ばれます。

振る舞われていたのはごぼう煮。ごんぼ汁。油揚げ、鶏肉、そしておからが特徴です。

引用 東洋精器工業株式会社

ブラタモリは、守口宿に移動します。街道を歩いてみると小高くなっており、堤防の痕跡が感じられます。

豊臣秀吉が整備した堤防を、徳川はうまく利用したのです。

江戸の「日本橋」から続く東海道五十七次のゴールにもやはり「橋」があった?

ブラタモリは、いよいよ東海道五十七次の終点、大阪中心部へ。東海道は日本橋に始まり、五十三次は三条大橋で終わりますので、五十七次の終点にも橋があるのではないかと予想します。

ブラタモリは、高麗橋を訪ねます。大阪市街と大阪城を結ぶ重要な橋です(寝屋川にかかる京橋という説もあります)。

下には、大阪・京都でのブラタモリのロケ地を掲載しています。
おすすめ 【ブラタモリ大阪城と真田丸・全ロケ地】豊臣・徳川の最後の戦いを探る#54
京都は😎マークのコースがおすすめです。

大阪でブラタモリ内容
梅田(#273)
大阪・堺(#134)海沿いに古墳が並ぶ場所だった堺。江戸時代には、要塞のような都市だった?
大阪ミナミ(#133)かつては土砂に埋もれていた道頓堀川周辺。江戸時代には、いまの吉本新喜劇への萌芽が生まれます。
😎現地取材 大阪城・真田丸(#54)豊臣秀吉の大阪城や、守りの要・真田丸は、埋められたり壊されたり。ブラタモリは痕跡を探ります。
商都大阪(#53)かつての大阪は、台地を囲む広大な湿地帯。ブラタモリは、信長、秀吉と受け継がれた、商業都市・大阪の発展の秘密を探ります。
😎山科
(#234)巨大要塞の痕跡
😎東寺
(#233)幻の「西寺」があった
😎大原
(#207)癒しの里を巡る
😎鴨川
(#206)貴船神社と納涼川床
天橋立
(#172)共通テスト的中の地形
😎比叡山編
(#143 144)山深い仏教の聖地
😎京都御所編
(#142)幻の秀吉聚楽第を発見!
京都西陣編
(#139)西陣織はどうできた?
😎宇治編
(#103)宇治茶はなぜうまい
😎銀閣寺・東山編
(#102)引き算の美学とは
😎京都祇園編
(#70)花街は分業制?
😎清水寺
(#69)類まれな崖の地形
😎伏見編
(#37)秀吉の面影を探る
😎嵐山編
(#36)渡月橋の景色
😎南禅寺・御土居
(#パイロット版)幻の先行版
😎は現地取材

😎見逃した方はこちらから

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